弱き者が見殺しにされる国 -新型コロナウイルスの猛威の陰で-

第三十三回 開園か、休園か――子供の命を預かる職場で(3)

「開園って、コロナの陽性者が出ているのに、子供を受け入れろということですか」
勤めている保育士が感染したことを区の担当職員へと報告した園長。しかしそこで告げられたのは、「保育園に休園を決める権利はない」「情報開示はできない」という動かぬ二点でした。事実を隠して通常通り開園し、子供たちやその保護者、そして職員を危険にさらすなんてことができるわけがない――。今できる最大限の感染防止対策として、園長は独自の決断を下すことになります。

  第33回 保育園(3)

 四月八日、横浜市神奈川区にある社会福祉法人聖徳会「西寺尾保育園」に勤める女性保育士が新型コロナウイルスに感染したことがわかった。園長の菱川由美がその連絡を受けたのは、自宅に帰った午後七時半のことだった。
 菱川はただちに神奈川区の担当職員のもとへ連絡をした。最初、区の担当職員は菱川の話を聞き、ひとまず市に報告して折り返し連絡を入れると答えた。当然、菱川としては、翌九日からは休園になり、保健所による徹底的な感染予防指導や集団検査が行われるものと想定していた。だが、掛かってきた電話で言われたのは、予想もしていなかったことだった。
 区の担当職員は言った。
「保健所の職員がそちらの園に行って調査をし、休園にするかどうかも含めて細かなことを判断します。それまでは、陽性者が出たことについて保護者につたえる必要はありません」
 菱川は当惑した。
「待ってください。保健所の方はいついらっしゃるんですか。朝までに来ていただかなければ、開園の七時を迎えてしまうことになります」
「朝までに行くのは厳しいと思います。ひとまず保育をしながら、保健所の職員が来るのをお待ちいただけますか」
「開園って、コロナの陽性者が出ているのに、子供を受け入れろということですか」
「はい、そうなります。どうするかは保健所の判断によりますので」
 菱川は耳を疑った。女性保育士が陽性だということははっきりとわかっているのだ。それなのに、いつ来られるかわからない保健所の職員の指示を仰ぐために、子供から職員、そして保護者までを危険にさらすことなんてできるわけがない。
 だが、くり返しそのことを訴えても、区の担当職員は、「通常通り開園」「保護者につたえることは禁止」の二点を主張するばかりだった。おそらく立場上、市から受けた指示を右から左につたえることしかできないのだろう。
 約一時間半もの間、同じような言葉のやり取りをつづけ、菱川は「これでは埒が明かない」と考えた。区の担当職員には決定を変える権限がない。ならば、市の担当職員と直に話し合うしかない。
「一度、市の方と話がしたいので、そちらの人につないでもらっていいですか」
 区の担当職員も決定権のある人間と話してもらった方がいいと判断したらしく、市につたえると答えて電話を切った。
 午後九時十分頃、横浜市こども青少年局こども家庭課の職員から菱川のもとに連絡があった。だが、市の担当職員もそれまでの主張を変えず、話し合いは平行線をたどった。市の意見は次のようなものだった。

・感染者が出たという情報開示をするには、市の調査と判断が必要。
・保育園は原則として開園しなくてはならない。
・感染者は自宅待機中なので、今日まで開園しているのと、明日開園するのは同じこと。
・保健所の検査は明日の何時になるか不明。

 菱川は食い下がった。報道によれば、すでに乳児の感染者の中には死亡事例も出ている。それなのに、保育をつづけることは子供たちを命の危険にさらすことになるのではないか。だが、市の担当職員は答えた。

「小児については現時点では、重症化しやすいとの報告はありません」
「でも、亡くなっているお子さんもいますよね」
「とにかく、保健所の調査によって総合的に判断するということでお願いします」
「それまで待てません。開園するなら、きちんと情報開示して保護者に登園するかどうかの判断を任せるという方法をとらせてください」
「まだ何もはっきりしない状況で情報開示すれば、保育園が無用なバッシングを受けることになります」
「でも、人命の問題ですよね。命が失われれば、誰にも責任はとれません」

 おおよそこのようなやりとりを、菱川と市の担当職員は約二時間にわたってつづけた。だが、市の担当職員は最後まで意見を変えず、「保育園に休園を決める権利はない」「勝手に情報開示はできない」ということをくり返すだけだった。
 夜が刻一刻と更けていくにつれ、菱川はもはや独自の決断を下すしかないと考え、こう言った。
「市の考えが変わらないのは理解しましたが、私の考えも変わりません。このまま話していても平行線だと思います。明日の朝、最初の一人が来る前に保護者に情報開示いたします」
 菱川は電話を切り、明日の朝までに保護者たちに事態を知らせる準備をはじめた。市の担当職員はなんとか思いとどまらせようと、午後十一時半に一度、零時半に一度、さらにはその上司から午前一時に一度連絡があった。彼らは菱川を翻意させることは不可能だと思ったのだろう。理事長に話をさせてくれと迫った。
 菱川は語る。
「市の担当者が理事長を説得して決断を変えさせようとしました。でも、私としてはどうしても子供たちを危険にさらすことはできませんでした。それで市や区が何と言おうとも、園の判断で情報開示するとしたのです。最終的には、理事長もそのことについては賛成してくれました」
 夜が明けた午前六時、菱川は保護者に対して次のようなメールを送った。

 一昨日、当該保育士が自ら探し出した医療機関にて検査を受ける事ができ、昨日夜に結果は陽性との知らせを受けました。
 横浜市は本日も通常の開園を指示しており、「無用の混乱を避けるため、保健所が調査し横浜市が今後の決定を下すまで保護者に通知はしないよう」との事でした。
 知らずに登園するご家庭がある事の危険性を伝えましたが、「休園や一部休園の可能性や決定は横浜市が状況を調査し判断するまで、情報開示はせずに開園すること」との見解です。
 法人としては横浜市の指示に準ずる所存でおります。
 しかし本日以降の登園に関しては保護者の皆様に選択権があり、皆様の判断に全て委ねるかたちで横浜市の指示を待つことが、今保育園ができる最大限の感染拡大防止策であると考えます。
 開園指示のある間は開園しており、やむを得ず保育が必要なご家庭もある事を認識し、万全な体制ではない事をお知らせした上で各ご家庭のご判断を宜しくお願い致します。

 この日の朝、四人の保護者が子供を連れて登園してきた。一人はメールを確認しておらず、三人はメールを見たものの保育園を利用したいと考えてやってきたのだ。新型コロナのせいで入園説明会も、入園式もできていなかったことから、園の方針を理解していない人もいたかもしれない。
 ただ、保育園側が再度四人の保護者に説明をしたところ、いずれも理解を示し、帰宅することを選んだ。これによって、在籍していたすべての子供が自宅待機をすることになったのである。
 だが、これですべてが終わったわけではなかった。濃厚接触者の洗い出しや検査、それに区や市とのやり取りが待っていたのだ。

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