ちくま文庫

「生きる」ことを命がけで考える
ちくま文庫『増補 サバイバル!』

7月刊のちくま文庫、服部文祥さんの『増補 サバイバル!』のまえがき「「生きる」ことを命がけで考える」を公開します。極限の自然状況に挑む異能の登山家による山岳ノンフィクション、待望の文庫化!

 「よくもまあ、今まで死にませんでしたね」と最近よく言われる。アルパインクライミングといわれる先鋭的登山からサバイバル登山まで、私は人生のかなりの部分を登山に費やしてきた。その登山について、原稿を書いたり、人に話したりするようなときは、どうしても山あり谷あり、やばいアクシデントありのドラマチックな山行を取り上げることが多い。その結果、私の登山とは危険なものだと思われてしまうようだ。だが、私自身は自分の登山がそれほど危険だとは思っていない。
 登山中のほとんどは穏やかな時間が流れている。それは原始そのままの環境に身をゆだねて、生きていることそのものが自然と嬉しくなるような瞬間のつみかさねである。もちろんときには、思考力をフル稼働してひとつの選択肢を何とか見つけ出し、それを限界に近い運動能力でこなしていくこともある。どちらも、「この星の命の時間」といえる重要な瞬間である。
 登山は判断の連続で成り立っている。なのに登山者の目に、判断の正誤が見える形であらわれるのは、致命的に誤っていたときだけだ。正しい判断にご褒美はなく、生存という現状維持が許される。小さな失敗は見えない労力や苦痛になって返ってくる。そして決定的な失敗をしたときに、登山者は死という代償を受けとることになる。
 落雷や自然発生の大雪崩など、登山者側に大きな過失がなくても圧倒的な力に飲み込まれ、死亡することもある。人が虫けらのように潰されていくことを受け入れるのはつらい。それゆえ人は、自然の驚異を擬人化したり、神格化したりしてきた。だが自然に意志はない。そこにあるのは完全なる無関心、もしくは完全なる沈黙である。自然はわれわれのことなど、まったく意識していないのだ。
 そんな自然環境に入り込んで、何とか望みの山に登頂し、帰ってくるのが登山である。
ときに命をかけることもある行為には、さまざまな思索や判断、激しい運動が伴っている。登山者が肉体的に優れているとも、思想が卓越しているとも思わないが、死ぬかもしれないがゆえにその哲学や行動には、飾らない真実が宿っているのも事実である。
 本書では登山、特にサバイバル登山の方法と思想に関して、いくつかの方向から迫ってみたいと思う。サバイバルにこうすればいいなどという単純な答はない。だが、これから記述する具体的な方法論や抽象的な思想からエッセンスを汲み取っていただければ、そこには「生きる」ということ一般に共通する何らかのヒントが含まれているはずである。

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