朴沙羅

証言・行政・当事者性

水俣のいまと記憶の継承

2020年7月25日、天劇キネマトロンにて、水俣病センター相思社の永野三智さんと社会学者の朴沙羅さんによる対談が行われました。主催者の牧口誠司さん、登壇者のお二人の了承を得て、当日の模様を掲載いたします。なお、公開にあたり原稿の確認および加筆修正をいただいています。


証言/行政/当事者性 永野三智+朴沙羅

なぜひとを疑うのか
朴 永野さんのご報告のタイトルが「証拠ではなく証言を」ということでした。

永野 朴さんは、「証拠を求めるひとにのみ『証拠ではなく証言を』ということが通じる」とおっしゃってました。
 水俣に少し長く浸かっていて、私自身がこの状況がおかしいとだんだん思わなくなってきたんです。慣れてきてしまった。「60年前の領収書」が、会話としてまかりとおっている。だから、朴さんに言われて目が開かれた。

朴 私が申し上げたのは、通常、ひとの発言を疑うには、疑う側の理由がいるということです。たとえば私が「昨日の晩ごはんは参鶏湯(サムゲタン)だった」と言ったとして、「ふーん」でしょう? そこで「ほんまに?」って聞かれたら、「なんで?」ってなる。私の祖母は静岡空襲を生き延びたひとですが、そのやけどの跡をみて、「本当にそれは空襲のやけどなの? てんぷら油がはねたんじゃないの?」だなんて聞いたら、孫として、いや日常会話として、変ですよね。
 つまり、「過去にこれがあった」という他人の話を、私たちは日常生活において、90%くらい「だよね」と疑わないで流している。残りの10%が例外なんです。だから、証拠を求めるというのは「お前の証言を信じない」というメッセージなんです。証言はふつう証拠として聞く。だから、永野さんは特殊な状況に置かれているなと思ったんです。

永野 いまの水俣でも、あらゆる場所でもひとの話を疑うようになってきていると感じています。時代をへればへるほど、何かを証明することは難しくなる。それに乗っかって、なかったことにされてしまう。「証拠ではなく証言を」というのは、そのひとの生を残していきたいということなんです。

朴 ちなみに元ネタは、大学院のときのゼミの先生です。例外的なことが目立つからそれがふつうだと私たちは思ってしまうけど、日常生活でごく当たり前にできていることには気がつかないよね、という。
 ひとを疑うことになってしまっているのは、たぶん「本当に困っているひと」を支援するシステムになっているからですね。制度の仕組みがそうなっている。「年収これ以下のひと全員生活保護」であれば、どれだけ困っているか証明をしなくていいわけです。「真に困っているひとに必要な支援を」とすると、「真に困っている」と証明しなくちゃいけない。歴史的にも例があります。本当に困っているひとにだけ支援する仕組みにすると仲が悪くなる。本当は困ってなくてもいいよね、くらいの感覚で一律支援にすると、仲が悪くはならないはずです。

世界を貧しくすることに加担する必要はない
永野 朴さんの発表で、「前もって歴史を知らなければ、話を理解できない」という話がありました。私は、『家(チベ)の歴史を書く』やホ・ヨンソンさんの『海女たち』を読んで、初めて「4・3事件ってなんだ?」と思ったんです。それで「4・3事件」や「済州島」のこと、水俣にいた朝鮮の人たちのことを書いた本を15冊くらい読んでみました。
 最初は朴さんの本をよくわからずに読んだんですが、そういう本を読んでから2回目に読んだら、見え方がぜんぜんちがって、伯父さん伯母さんの言っていることの意味が変わっちゃったんですよね。『家(チベ)の歴史を書く』や他の本を読んで、暮らしの中の見える景色がそれまでと違うものになった。そのひとの背景を知ることでもっと理解したいと思う。疑わなくなる。疑わない社会って素晴らしいのに、ずいぶん遠くに来ちゃったなと思っています。
 朴さんも、きっと同じ経験をされたんじゃないかと思います。朴さんの本ができるまでにいちばん大きかったものってなんでしょうか。

朴 単純に、おもしろかったからです。私にはおもしろいし、このひとたちは自分は超普通だと思ってるから、このギャップを埋めねばなるまいと思った。このひとたちをおもしろくしているものはなんだろうと思ったときに、歴史とか背景とか、それはめんどくさい話をいろいろ出せねばなるまいと。
 そういうめんどくさい話も含めて、論文として個人の人生を書ければいちばんいいんですけど、人生って混沌としていて筋なんてないし、先行研究もないので。本にしたところで、「かれらの人生を書ききった」とは、全く思わないんです。書いていないところもたくさんあります。でも、全部書いたらドン引きされたり「朝鮮人やばい」って話になってしまうかもしれない。これくらいだったら、私の尊敬する「心優しい日本人のひとびと」に伝わるであろうというラインを狙いました。
 水俣も、そこにあるんだけど、見なくて済むようにできている。でもそうなったら、それは確実に世界を貧しくしますよね。そして不正義に加担することになります。世界を貧しくし、不正に加担する必要はないだろうって思います。

存在の伝え方
朴 私からも質問ですが、水俣病患者ではない私たちの語ることの意味と可能性について、聞いてみたいです。

永野 水俣の歴史を伝える仕事をしていますが、患者と私とでは確実に、患者の経験を自分がしていないという圧倒的な差があります。かれらが語ってきたことは決して語れないし、語ろうとも思わない。
 では、私ができることはなにか。水俣病事件の歴史と、そこに生きたひとたちの存在を伝えるということだと思うんです。そのひとたちが確かにここにいて、出会った自分が何を感じ、何を考え、どう変わったのか。
 私の先輩たちも、同じことで悩んできていて、これは普遍的なことなのだと思います。例えばむかしの職員が、被害者の経験を言葉で表現することの難しさを感じていたとき、ある患者が25年使用している漁具を見て、実物がもつ存在感を実感する。実物が有する訴求力を表現する展示館を作ろうと思い立つんです。そこで、水俣病研究会の協力を得て聴き取りを始める。
 相思社設立の呼びかけ人の一人、作家の石牟礼道子が色川大吉、最首悟、日高六郎、原田正純など不知火海総合学術調査団の学者とともに患者宅やチッソの工員宅を回って実物を集めた。また当時、相思社が主催した「生活学校」に全国から集った希望者が一年間合宿し、患者との共同生活、患者宅への援農や漁の手伝いの体験を通しての協力のもと、考証館の展示パネルがつくられています。
 おととし30年を迎えたのを機に、考証館の展示を改訂し、表現を少しずつ変えました。
 というのも、相思社を作った世代は、1950年前後の生まれですが、現在の相思社職員は、1970~1990年代に生まれており、展示に使われている表現や単語に対する前提がそれまでとは違う職員があらわれた。自明のことがそうではなくなっていく今、伝え方も、伝えられ方も、ともに考えてゆくという行為も、時代や状況によって変えていく必要があると感じました。
 相思社の職員はみな、素人です。何度も会議を開き、個人作業に没頭し、ネットワークを通じて古い支援者や患者、民間や公の資料館の学芸員、さまざまなジャンルの学者、デザイナーなどの力も借りながら、昨年展示変えが大部分終了しました。
 大部分、というのは、これから追加していくコーナーがあるからです。水俣市民の声を聴いており、それを展示にしようとしています。最初はまとめようと思ったけれど、まとまらず、まとめられず、そうこうしているうちに、どこを抜粋するのも違うという話になって、語った人が、「そうだった、これも言いたかったんだ」とか、「やっぱりこれは伝えたくない」と思ったらいつでも言葉を加えたり消したりもできるように、自由度を確保し、お金のかかるパネルにはせず、冊子のような形での制作を進めています。
 それぞれのパネルをつくるとき、その表現に悩みました。私は何を伝えたいのか。事実関係を書くときは簡単ですが、そうではないことを伝えるためには、答えを与えるのではなく、悩みに来館者を巻き込むような展示がつくりたいという思いがわいてきました。
 考証館は来館者によって、または解説をする職員やその職員が直前に何を経験したか、または水俣のその時々の状況によってまったく変わってしまいます。一度だって、同じ解説はありえません。考証館では、もちろん解説をすることが第一ですが、時間に余裕がある人や、立ちすくむ人を見つけると、私はついつい、活動や展示に関してのお悩み相談をしてしまいます。いっしょになって悩んでくれた人が、そのあとも気にかけてくれ、あのことどうなった?と連絡をくれたりします。
 水俣病の加害や、水俣病を生み出した構造を見つめるとき、チッソや行政やそれを肯定したり支えてきたりした社会を批判するとき、その向こうには必ず「私」がいます。それは誰だって同じだろうと思います。そういう意味でも、私たちは当事者です。チッソや政府と同じ危うさをもつ私を見つめることは、自分が丸裸にされる感覚です。その感覚も、同時に味わってほしいと思います。私たちが伝えたいことは、正義ではなくて、正義の間に生じる葛藤です。その葛藤や悩みに、来館者を巻き込む。そういう展示を作りたいと思っています。
 いま危機的な状況で、新型コロナの影響もあって修学旅行生も水俣には来ない。語る人って、責任感っていうのもあるかもしれないけど、聞きたいという人がいるから語れるんですよね。インターネット授業をやっても、目の前で体験を話す、聞くというのとはちがう経験になっている。いまの状況が2年3年と続いたとしたら、語らなくなるひとたちも出てくるかもしれません。
 その中で語りの営みを絶やさないために、私たちにできることがある。相思社にはたくさんの写真や、裁判資料や患者さんたちの日記があります。その中から、例えば座り込みのときの写真を患者さんの家に持って行って、これはどこで、そのときの雰囲気はどうで、誰が参加をしていて、場面の前後ではどんなことがありましたか、というふうにして、聴き取りをしていく。ここで大切なのは、写真に写っていない情報を聴くことだと思います。コロナで通常の業務ができなくなった分、私たちの時間はある。タイムリミットのあることです。今しかできないことを、でも焦らずに、できるだけ丁寧にやりたいと思ってやっています。
 学校では、水俣病の話は昔のことになっている。私が溝口訴訟に出会う前の感覚と同じです。水俣事件と同じ構造のことがすでに繰り返されていて、体験者の語りやそれを伝えたいというひとがいなくなったところでまた同じことが繰り返されてしまう。だから、役割がちがうことにも意味がある。朴さんの「継承はできない」と重なる話ですが、役割分担をして伝えていく。
 私が継承という言葉で思い浮かぶのは、フジエさんのことです。昨年10月に亡くなられましたが、その語りは圧倒的な力を持っていました。
 フジエさんは一人目のお子さんを水俣病で失っておられます。目が見えなくなって、しゃべることができなくなって、口から物が食べられない、歩くこともできなくなって、「その姿を見ていく母親の気持ちは、人には、わかってもらえないと思います」「娘のことは一日も忘れたことはない」と語っておられました。それは「もはや戦後ではない」と言われた1956年のことで、ちょうど水俣病公式確認の年でした。同じ年に生まれた別のお子さんは胎児性の水俣病患者でした。
 57年、地元の熊本大学は、熊本県に対し「水俣湾内の魚が危険」「ある種の重金属に侵されている」と報告しました。それを受けた熊本県は厚生省(当時)に対し「食品衛生法」の適用を促します。しかし厚生省は「水俣湾内すべての魚が有毒化したという明らかな根拠がないため、食品衛生法の適用はできない」との返事をし、それ以降、いま現在に至るまで、法律によって水俣湾及び不知火海の漁獲・摂取の規制が行われたことは一度もありません。熊本県も厚生省の返事を守り、以降、住民の魚の摂取に対し、何らの対策も行っていません。住民は、汚染された魚を食べ続けました。
 裁判の頃、またその後も、痛みをもったフジエさんのところには、痛みをもったたくさんの人たちが寄って、食べたり飲んだり、水俣病のことを相談しあったりなさいました。フジエさんはそのたびにたくさんのご飯をこしらえて、たくさんの人の相談を受けたといいます。私はそんな時代を知りませんが、子どもの頃にフジエさんのご飯を食べたから、なんとなく想像がつきます。
 人は、食べなければ生きてゆかれません。「うったち(俺たち)は、米びつに毒ばもられたったいな」と患者の浜元二徳さんが言った、その海で、たくさんの母親が子どもに魚を食べさせました。魚を食べた子どもたちが水俣病になり、母親が産んだ子どもたちは水俣病になりました。
 たくさん人たちが自身の水俣病を隠すなか、「水俣病を隠そうと思ったことはない」とフジエさんは言いました。「うったちは何も悪かことはしとらん」と。その信念と、それを表に出したことに、どれだけの人が勇気づけられ、社会が動いたかと思います。
 「ただ水俣に生きている」と思っていた人たちが、そうではなかったと気づきはじめたころから、フジエさんは、一人で子どもを育てる私を気遣うようになりました。会うたびに、「ちゃんと飯は食えておるか」「母子家庭手当は受け取りそこねておらんか」と気迫いっぱいに尋ね、「もらっとります」というと、「ならヨカ」と力強くうなずくのですが、聞くときの顔がこわくて、私の子どもは怯えていました。
 フジエさんは、他人の権利に敏感で、私が手当をもらうのは、権利ではなく「義務」だと思っているようでした。聞く相手は私だけではなくて、社会的に弱い立場に追いやられることのないよう、追いやられがちな人とそれを囲む社会を見つめ、声をかけていたようでした。
 それは、一度は見舞金契約という形でその無念を飲み込んだフジエさんの、二度と同じ思いをしない、させないための、信念だったのではないかと思います。
 フジエさんは、「飲み込まれない」。「被害者が、弱いものが声をあげないと何も変わらない」と、言っていました。フジエさんと一緒にいると、弱いことは、恥ずかしいことじゃないと思えました。
 彼女の体験そのものを、彼女に成り代わって再現することは不可能です。だけど、この出会いや、フジエさんの生き方、その生き方に出会った私や、フジエさんに愛された私が何を感じ、考え、変わったか。それを体現することはできるのではないか。そして仕事に活かしていくことはできると思います。継承とはそういうことかもしれないし、違うかもしれないと考えています。
 この場にいるみんなが、語っていいと思うんです。水俣病と出会ってとか、戦争と出会ってとか。そこで自分が何を感じたのか語っていいし、それがそのひとの物語になって次につながっていくといいと思っています。

朴 変化していく自分を描く試みもたくさんあります。前田拓也さんの『介助現場の社会学』は、自立生活する障害者のところに、介助者として入っていく自分について書いています。たとえば入浴介助のときに、「パンツを脱いだら、ただの入浴やな」って思って、自分もパンツを脱ぐかどうか迷うとか。介助しながら自分が直面していく問題を書いていくと、どういうわけか知らんけど、自立生活を送る障害者の克明なドキュメントになっている。前田さんの本を読み進めていくと、重度の身体障害のひとたちがどういう状況に置かれているかを見ることになるんですね。近いものを、永野さんの話を聞いて思いました。
 じゃあ自分語りをしたら、何かの理解を助けたことになるんですかと言われたら、そんなわけがない。お前の話はどうでもええから、はよ本題に入ってえな、と言われるのが普通です。そこらへんの線の引き方はすごいむずかしい。たとえば私が水俣病の証言を聞いたとして、聞いた自分の話はできるけど、それが水俣病を伝えていくことになるのかというと、それは違うだろうなと思います。単純に情報量とか出会った状況のちがいなのかもしれない。でも、確実にわたしたちは何かをもらうんですよね。

持続可能な運動
朴 最近少しだけ、いわゆる慰安婦問題に関わってきた人たちの話を聞かせてもらっているのですが、途中でやめた人のほうがきっと多いんだと思います。普通、運動ってなんとなく自然にフェードアウトしちゃうか、しんどくなってやめちゃう。立場性に悩んでつらくなったとか、それこそちっちゃい子がいたら平日の夜とか動けない。だから、持続可能な運動が必要だなと思う。

永野 「持続可能な運動」というのはキーワードで、ちょうどいい塩梅で続けていけたらいいと思う。だいたい、極端になってしまう。
 家族がひどい差別に遭ってきたのを見てきて絶対に水俣病の認定申請はしないと思っていたけれどやっぱり納得できないということで、高齢になって申請をなさった方がいます。申請をした4年後に、疫学調査を受けてくれという連絡がありました。どんなところで魚を食べて、どんな症状があるのか、行政職員が話を聞きにくるんです。
 その方の体調が悪かったので、頼まれて私が代わりに日程変更の電話をしたんです。そしたら、「じゃあ、取り下げ書を送りますよ。認定申請取り下げたら、もうたいへんな思いしなくて済みますから」って。「いやいや、ちょっと待って。送らないでください」と言ったら「取り下げをしないという意志の確認ができないので送ります」と言われて。それで、行政に抗議したんです。
 議会に取り上げられて、ニュースにもなりました。でも、そうしたら、まわりのひとたちが冷ややかな感じになったんです。行政の職員たちが相思社の関係者のところを回って、大人しくしたほうがいいんじゃないのと、回りくどいやり方で伝わるんです。それでまわりが信用できなくなってしまった。
 いまの熊本県知事が立候補したときのマニフェストのひとつが、いまいる認定申請者を0にするというものなんです。年間300人ずつくらい棄却されていきます。それ以外に、2016年は55人、17年は48人、18年は46人自発的に申請を取り下げたひとたちもいたんです。それが、昨年は35人、今年は6月末現在ですが2人になりました。行政が患者に丁寧に対応してくれるようになったのかもしれない、私が行政に抗議したことの効果もあったかもしれないとも思ったんですが、持続可能な運動というのはとても魅力的だなと思いました。朴さんに教わりました。

朴 いや、私はまったく政治運動に関わってません。祖父も母も市民運動や平和運動に関わってきたのですが、私は積極的に関わらないことを選びました。なので、三代続いた家業を潰したんです。それについては、きわめて重い責任を感じています。

永野 運動って、いろんなかたちがあると思うんですよ。たとえば私たちは水俣病歴史考証館という展示館を運営しています。私は、ここは運動する博物館だと思っています。毎日この場を守り、水俣病をコツコツと伝え続けるということは、シュプレヒコールをあげて街を練り歩くようには目立たないけれど、問いを投げかけたり、共に考えること、対話することも、ちゃんと運動のひとつだと思っています。そして、朴さんがここで喋ること、これじたいも運動だと思います。
 「人間は戦争よりも大きい」という話がありましたが、ああ、水俣病だってそうなんだと思いました。私は話を聞くとき、そのひとが小さいころにどんな遊びをしたのか、どんなものを食べたのか、どんなひとに囲まれて育ったのか、そういうことを聞きたいと思っています。そのなかには、おのずと水俣病が含まれる。
 毎年、患者会30人くらいで旅行に行くんです。一昨年だったか、みんなで温泉に入ってお酒を飲んで芸をして、最後に、いつも話をしないひとにマイクを振ったんですよ。そうしたら、「今日は焼酎吞んで、歌って踊って、山の人と海の人が一緒になって騒いで、俺、水俣病になって幸せですばい」って。ああ、やっててよかったと思いました。もちろん、「水俣病になって幸せだった」というのはちがうんだけど、生きていて良かった、って、私には聞こえた。

行政の窓口を動かす
朴 子供のときから行政の窓口が興味深かったんです。私の戸籍上の名前は、姓が母の氏で、「山田太郎」の「太郎」のところが朴沙羅なんです。朴が氏で、沙羅が名であると証明するものがない。
 中学校のときだったかな、不在配達なんかで郵便局に荷物を取りに行くと、学生証だと身分証にならないんですよね。でも、人によっては「はい」って、出してくれるんです。その場のひと次第。少し前まで地域の外国にルーツのある住民を対象にしたNPОでボランティアをしていたのですが、役所で手続きするのに同行すると、人によって対応が違うなあと思うときがありました。
 もっと記憶を遡ると、小学校のときに阪神・淡路大震災があって、実家の母がボランティアとして支援に行っていました。被災者のひとたちが神戸市に団交を申し込んだことがあったのですが、そのとき母と一緒に行って、うっかり何かまちがって、神戸市役所に入っちゃったんですよ。そうしたら、被災者のひとたちが一所懸命しゃべっていて、すごく怒ってるし、すごく悲しんでる。だけど、出てきた職員さんの表情が変わらない。ちょっと言い方は悪いですが、そこに興味が湧きました。この人たちはどうして、こういうふうに振る舞えるんだろうかと。その人たちが何らか心を動かされれば、たぶんちがう展開が起こるじゃないですか。だから、そうならないようにしないといけない。それはどういう仕組みなんだろうって。
 権利を守るっていうけど、それは結局、役所に持っていく書類を、向こうのマニュアルになるべく沿ったかたちで出すってことなんじゃないかと思うんです。行政の受け入れられるマニュアルの範囲に、ちょっとがんばったら入るくらいの書類を出す。それが権利を守ることの実際だと思うんです。だから、その線を動かすというのは、ひとつの運動のあり方だと思っているんです。
 行政って、超ザルだったりする。昔だったら、外国人登録証を作るときに指紋を押捺させるくせに、写真ビリッて貼りかえてもいいわけです。どんだけザルやねん。でも、登録証がなかったら、ひとを拘置所に入れたりできるわけですよね。鉄壁にみえて、たぶんそうじゃないはずだと思った。だから、具体的に、「この窓口で対処しているおまえ」というかたちで、ひとを押さないといけない。そういうふうにしたら、ちょっとサステナビリティが高まるかなって。
 私たちは、24時間のうち23時間50分くらいは、具体的な目の前のひとと、日常生活の小さい場面でやりとりをしているはずで、そのひとを動かせたらがんばってるんじゃないかと思ったほうがいい気がするんですよね。

永野 この仕事をしていると、制度の話にいつもぶちあたります。いまやりとりをしている愛知県の方がいます。愛知、大阪や京都もそうなんですが、水俣周辺の出身者が多い。そのひとは、きょうだいの6人が水俣病の特措法の手帳を受けたんですよね。だけど、自分だけは何も受けなかった。「患者として認められなかったということは、国民じゃないっていうことだろう。じゃあ税金は払わない、保険も入らん」と、医療費を自己負担してるんですよね。
 このあいだ銀行口座が凍結されたという電話があって、それでも自分は国民ではないと言い張る。第三の道というか、制度でないところで闘っているひとです。毎回同じ話をして電話を切るんですけど、このひとの覚悟を前にして、制度だなんだと言えなくなっていて。

朴 制度からこぼれると、とてもつらい。制度にはまらない生き方は、魅力的に見えるかもしれない。でも、魅力的に制度からこぼれおちて生きていけるひとは、お金とかほかに何か別の支えがあるんですよね。
 今日の隠れテーマは行政だと思うんですけど、制度からはみだすことができるひとは、いいんです。私の伯母は韓国から移住してきた直後は、外国人登録証をもっていなかった。けど生きていけていた。ある意味で、制度の目をかいくぐっていたわけですけど、その結果、家庭から出られなかった。人によっては不安定な就労に甘んじるしかなかったし、身近な人から搾取されるのを耐えるしかなかったかもしれない。
 制度に頼らない生き方は、選択肢としては、存在しているほうがいい。だけど、うっかりそういうのをかっこいいと思ってしまわないように、気をつけたほうがいいと思います。特に、自分が制度の中で守られて生きている人はね。

永野 愛知の方は、ものすごく苦しそうなんですよね。かっこいいなんて自分では思ってないと思います。どうしようもなくて、この状況に追い込まれた。私はいまも、そのひとになんて言っていいかわからないです。何回も話していて、会うことにもなったけど。

朴 永野さんに何ができるかは、実際に会ったら、そのひとが永野さんに教えてくれると思います。なお、これの元ネタは、私のテコンドーの師範です。私、組手が超へたなんです。それで、どうしたらいいんですかと師範に聞いたんです。「相手を見ていれば、相手が次どう出るかわかるから、自分で考えなくてもいいんですよ」と言っておられました。人生に使え過ぎてびっくりしました。私ほんまに相手を見てないことばっかりですからね。

2020年9月16日更新

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永野 三智(ながの みち)

永野 三智

1983年、熊本県水俣市生まれ。2008年、一般財団法人水俣病センター相思社職員となり、水俣病患者相談の窓口、水俣茶やりんごの販売を担当。同法人の機関紙『ごんずい』に「患者相談雑感」を連載する。2014年から相思社理事、翌年から常務理事。2017年から水俣病患者連合事務局長を兼任。著書に『みな、やっとの思いで坂をのぼる―水俣病患者相談のいま』(ころから)がある。

朴 沙羅(ぱく さら)

朴 沙羅

1984年生まれ。専攻は歴史社会学。単著に『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)、『外国人をつくりだす――戦後日本における「密航」と入国管理制度の運用』(ナカニシヤ出版)、編著に『最強の社会調査入門』(ナカニシヤ出版)、訳書にポルテッリ『オーラルヒストリーとは何か』(水声社)がある。1984年生まれ。専攻は歴史社会学。単著に『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)、『外国人をつくりだす――戦後日本における「密航」と入国管理制度の運用』(ナカニシヤ出版)、編著に『最強の社会調査入門』(ナカニシヤ出版)、訳書にポルテッリ『オーラルヒストリーとは何か』(水声社)がある。