ちくま新書

中東で起きていることを「理解する」ために

2020年9月刊、末近浩太『中東政治入門』(ちくま新書)の「はじめに」を公開いたします。戦争が絶えず、宗教が複雑に絡み合い、「理解する」のが難しく感じられる中東。「イスラーム国」「アラブの春」「パレスチナ問題」…それらは「なぜ」起こったのか? 本書を読めば、さまざまな事件・事象の「理解」に近づくことができます。まずは、ここに公開する「はじめに」をお読みください!

†中東政治を「理解する」

 本書の目的は、「中東政治学」という学問の強みを活かしながら、複雑怪奇だと思われがちな中東政治を「理解する」ことである。中東政治学とは、簡単に言えば、中東で起こっている政治現象の実態や原因の解明を目指す学問であり、「中東政治」を「学」ぶことと、「中東」を「政治学」することの二つの側面をあわせ持つ。

 そこでこだわりたいのが、「理解」というキーワードである。「理解する(understand)」は「知る(know)」とは本質的に異なるものである。

 日本では、複雑怪奇な(ものだと思われている)中東政治に関する解説書が数多く出されてきた。中東で何か事件が起こるたびに、新聞やテレビ、インターネットでは、それを伝える多くのニュースであふれかえる。しかし、個々のニュースを追うだけでは、実際に中東で何が起こっているのか大摑みにすることは難しい。かといって、日々ニュースから情報を拾い集め、時間の流れのなかに配置・整理するための手間も時間もない、というのが普通であろう。そのため、現在進行形の事件にフォーカスした解説本は、無数の情報に文脈や一貫した解釈を与えることで、中東で「何が(what)」起きているのか「知る」ことを手助けしてくれる。そこには、即応性や速報性の強みがある。

 しかし、その一方で、こうした解説書は、ある事件が「なぜ(why)」起こったのか、その因果関係を提示することには長けていないことが多い。「何が」起きているのかを叙述することと、「なぜ」起こったのかを説明することとは、似て非なるものである。

†「知る」と「理解する」

 たとえば、イラクでシーア派とスンナ派の武装組織が交戦し、双方に多数の死傷者が出ているとしよう。その事件を伝えるニュース記事を通して、私たちはイラクで武力衝突が発生している事実を「知る」ことができるが、それだけでは、その原因を「理解する」ことにはならない。

 さらにそのニュース記事の最後の部分に、次のように書かれていたとしよう(実際によくある)。「イラクの住民の約6割がシーア派、約2割がスンナ派、約2割がクルド人であるとされる。」この文章から、私たちはイラクの宗派別の人口構成を「知る」ことはできる。しかし、なぜシーア派とスンナ派の人びとが武力衝突したのか、その原因を「理解する」ことはできない。

 むしろ、この文章が付け加えられることで、記事はトリッキー(油断のならない)なものになる。イラクの宗派別人口構成がシーア派とスンナ派の武力衝突の一件とどのような関係があるのか、判然としないからである。しかし、読み手の側からすれば、このように書かれると ―― それが意図的であるにせよ、ないにせよ ―― 、宗派が違えば紛争が起こる、言い換えれば、複数の宗派が存在していること自体を武力衝突の原因とする因果関係を述べているようにも受け取れる。

 つまり、このニュース記事からは、①複数の宗派集団が存在する、②武力衝突が起こった、という二つの事実を「知る」ことはできても、なぜ事件が起こったのか「理解する」ことはできない。にもかかわらず、この二つが併記されることで、①が②の原因になっているかのような因果推論に誘導され、結果的にわかった気になってしまう危なさがある。宗教や宗派の違いにこだわるから殺し合いが起こるのだ、と。これでは、こうした中東をめぐるありがちな思い込みや偏見が上塗りされることはあっても、中東政治に対する理解が深まることはない。

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