「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち

戦時下の「共助」論

防毒マスクと「女生徒」

9月14日に行われる自民党総裁選挙に出馬した菅義偉氏は、「自助・共助・公助」を打ち出しています。今では自然にセットで使われているこれら三つの言葉には、実は別々の来歴がありました。
戦時下に使われた「共助」という言葉が、いかに「日常生活の共同化」そして「身体の機械化」へと結びついていくのか――。
コロナ下で提唱された「新しい生活様式」への違和感を解き明かした『「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち』にもつながる、大塚英志さんのエッセイです。

†機械化される身体
 そう考えた時、ヒントとなるのが女学生集団の写真群の中に「女性の双輪機械化編成 颯爽とペダルを踏んで」と題する東京府八王子実践の自転車による教練の記事である(図8)。

図8 自転車による「機械化部隊」(「アサヒグラフ」1941年9月24日)

 その記事にはこうある。

國民の生活武器であつた自転車も一轉して國防の精鋭武器の一つとなり、時局下に大きな役割をもつて來たが、この性能を有事に際して遺憾なく発揮するためには、規律と統制のある組織の下に集團訓練を行つて置かなくてはならない──と、他校に先がけて颯爽と誕生した双輪機械化部隊である。
(「アサヒグラフ」1941年9月24日)

「機械化」という言葉に注意したい。先の防毒マスクづくりの記事の隣には「関東州警察の機械化部隊」という記事が掲載されている。

新たに登場したこの特別警察隊は、警視廳の新選組や大阪警察部の特別隊を機械化した、いはゞ武装部隊で、「小銃」「軽機」「重機」「歩兵砲」の各班とトラツク、オートバイ、自轉車隊の傳令輸送班によつて編成し、その服装も國防色の制服に、戦闘帽、鉄兜、といふ颯爽たる臨戦型で毎年春秋二回定期演習を行つて、堅忍不抜の警察精神を不断に培ひ、一朝有事の際は電撃的に全州内に水も洩らさぬ警備陣を布くといふ全國最初の警察隊である。
(「アサヒグラフ」1941年10月15日号)

「機械化」とは、これも戦時下スローガンの一つである。近代戦としての科学戦というイデオロギーの具現化として、あらゆるものを「機械化」しようとし、それは産業のみならず家事などの生活に及ぶ。記事のように警察組織も「機械化」するが、その中核は当然、軍の「機械化」である。
 それには二重の意味があり、一つは軍備の機械化であり、もう一つは軍隊そのものを「機械」に比喩する、ということである。つまり、この自転車女学生における「機械化」とはただ自転車という「機械」を用いて訓練をしているだけではなく、その統制された姿そのものが「機械」であり、それを「機械化」と形容しているのだ。
 だから、再び堀野正雄に戻れば、その作品はロシア・アヴァンギャルドや構成主義の影響が強く、注意すべきは板垣鷹穂との共同作品、あるいはその理論の実践としての作品にその達成がある点だ。板垣は大正新興美術運動が戦時下のファシズム体制と合流して出来上がった、戦時下のアヴァンギャルドとも言える機械芸術論の理論家である。堀野の鉄塔などを幾何学的な構成としてローアングルでとらえる写真と、整然と行進する女学生写真は、同じ機械芸術論的な「機械美」を表現しているのである。

†婦人服に求められる「集団的な美しさ」
 そして、その機械美を人間の身体に積極的に見出したのがレニ・リーフェンシュタールのプロパガンダ映画「オリンピア」に他ならない。この映画が戦時下日本において、身体の機械美の表現としてリアルタイムで受け止められたことは、学習院時代の三島由紀夫(平岡公威)少年が以下のように正確に感想文に書き残していることからも窺える。

雲と円盤、聖火、彫像的な瞬間美の姿勢、ハアドル、アクロバット体操……。それらは皆数学的な頭脳から割り出されたもはやカメラの対象ではなくカメラの創造した物象であるところの「自然」がどうしてこのやうに規則立つた行動を強ひるものかといふ感じを抱だかせる撮影である。むしろ機械文明を超越した数学の文明、抽象文明(即ち哲学的文明)でそれはある。本来は頗る規則的でありながら外面からは乱雑に見え、しかも人目にはみえぬ規則正しさを示されると嘘のやうな気がするところの、宇宙的法則を表現しようと試みる。哀切な数と機械ののぞみである。
(三島由紀夫「オリムピア」『決定版 三島由紀夫全集 26』、2003年、新潮社)

 ここで三島が見出した機械美は身体の機械化の美に他ならない。堀野や写真グラフ誌が女学生の整然と一体化した身体に感じ取り、表現の対象とした美学である(図9)。

図9 機械美としての身体 Leni Riefenstahl「Olympia」(TASCHEN、2002年)

 その美学は当然、服装にも及ぶ。ファシスト帽を纏う女学生については先に紹介したが、前回のエッセイで花森安治が翼賛会時代に並行して編集した婦人雑誌に国防服の「着こなし」の記事があることに触れたことに絡めれば、これをもっぱらファシズムの表象を着崩すささやかな自由のように書いたが、同じ記事にはこういうくだりもある。

兵隊さんと同じやうに、胸をいつばい張つて、直立不動をした時の形。
 もし、日本に空襲のあるやうな場合は、今、男の背年團のしてゐることは、皆、女が引受けるぐらひ考へてゐていゝと思ふ。そんな時、整列した氣持のことも考へたい。凛々しいし、規律正しい感じにも。
(「女の国防服」『婦人の生活』1940年、生活社)

 つまり花森は「国防服」の「整列」における美を他方では想定しているのである。おしゃれな「国防服」は防毒マスクやファシスト帽、機械化舞台の行列、行進に機械芸術的美をもたらすアイテムに他ならない。
 だから同じ花森の雑誌で林芙美子は「婦人の國民服」というエッセイを「オリンピア」の感想としてこう書き出す。

先日、映畫「オリムピア」を見て、日本の婦人の服装にも、もつと集団的な美しさがほしいと考へた。
(林芙美子「婦人の國民服」『婦人の生活』1940年、生活社)

「放浪記」の作者は、婦人の服装に「集団的な美しさ」を求めると言ってはばからない。そして着物の柄や色、生地について「ていねいな」蘊蓄を語りつつ、「オリムピア」のドイツ選手団の制服を日本の婦人服の参照にせよとさえ言う。
 だからこの一文は否定なくこう閉じられるのは当然である。

「オリムピア」に出てくる独逸の婦人選手は上衣が確か紺色らしく、スカートが白で非常に長かつた。あれなどは今の言つてゐる婦人の國民服の参考にならないであらうか。
 スカートの長いことは、短いスカートの肖合はない日本の娘さんにとつて、丁度適當であるし、第一、白いスカートは洗濯がきく。
 日本の婦人には紺、白、黒が最もよくうつる色彩でないかと私はいつも考へてゐる。
 何にしても、よろこびをもつて着られる婦人の國民服がほしいと思ふと同時に、日本婦人も同じく着物や帯から離れて、すこやかな均整のとれた美しい立派な軀をつくりたいものです。(同)

「均整のとれた美しい立派な軀」とは即ち機械美をまとった身体に他ならない。花森的な戦時下の「ていねいな暮らし」は、かくしてナチズムのプロパガンダ映画の身体に担われる、ということになる。
 このように翼賛体制下に於ける「共同」は一方では「隣保共助」という生活単位の「共同」化を求めるが、同時に身体そのものを「共同」して駆動する「機械」たれとも求めてくる。それが「共同」「共助」の果てにあったものである。

2020年9月12日更新

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大塚 英志(おおつか えいじ)

大塚 英志

1958年生まれ。まんが原作者、批評家。神戸芸術工科大学教授、東京大学大学院情報学環特任教授を務め、現在、国際日本文化研究センター教授。まんが原作に『クウデタア<完全版>』(KADOKAWA)他多数、評論に『感情天皇論』(ちくま新書)、『少女たちの「かわいい」天皇』(角川文庫)、『感情化する社会』(太田出版)、『大政翼賛会のメディアミックス』(平凡社)、『日本がバカだから戦争に負けた』(星海社新書)、他多数。

 

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