単行本

「ちょっとした間違い」を生きる

坂上秋成『ファルセットの時間』書評

 一般に男性歌手が裏声で歌うことを意味する「ファルセット falsetto」というイタリア語は、「falso 間違った」に指小辞の「etto」が語尾に付いたものである。すなわち、本来は「ちょっとした間違い」という意味だ。
 三十四歳になる主人公は、ある意味で「ちょっとした間違い」を生きてきた。もちろん、自分の体の性別に違和を感じるというのは、当人からすれば到底「ちょっとした間違い」では済まされないことだろう。しかし、性的少数者を描く多くの作品が、本人の違和感をできるだけ大きなものとして扱おうとしているのとは逆に、むしろこの主人公はその違和をなんとかいなしながら生きていこうとしている。
 実際このところ、いわゆるLGBTを描く作品は雨後の筍のように現れている。これまで声をあげられなかった弱者に声を与えるという点でもちろん意義あることに違いない。
 しかし坂上のまなざしは他とは違う。これまで同性愛を主要なモチーフとしながらも、登場人物たちが自身を同性愛者として同(アイデンテイフアイ)定(アイデンテイフアイ)せず、ただその場その場での「愛」を個別に見つめてきた。他の多くのLGBT小説がアイデンティティの問題として書かれているのに対して、坂上の人物たちはむしろ同定の網の目を潜り抜けようとしてきたと言っていいだろう。それは本作の「女装」においても変わらない。
 われわれは「女装」する人間のイメージを、テレビなどで目にするごくわずかな具体例から形成しがちだ。たとえば、「女装」の奥に、女性になりたい身体と、男性を愛する精神を隠し持っているはずだと勝手に想像する。もちろん、そういう人もいるだろう。しかし、あくまで女性の装いに憧れるだけで、身体改造を願うわけでなく、性愛の対象も女性という人もいる。「女装という言葉で人をくくることなどできはしない。ひとつの単語の中に、いくつもの欲望のかたちが詰め込まれている」と主人公は独りごちる。
 だから、装い、身体、性愛の対象という三つの面から考えれば、単純計算で六通りの可能性があることになるが、さてしかし、その中のどれか一つに自分を同定できれば安心だというわけでもない。主人公は「自分がかかえていた欲望についてすらも正しくは理解できていない。この先もずっと分からないままだろう。そう思っておくことでしか誠実さはたもてないと思った」とも言う。欲望をどこかに安定的に着地させることが自分に対する不誠実に繋がりうるという、自分に対してすら知ったかぶりをしないこの感覚は重要だ。
 主人公は、たまたま喫茶店で見かけたまだ女装初心者とおぼしき若者に目をつけ、「彼女」を育てようとする。聞けばまだ十六歳だという「彼女」は、いわば磨かれざる玉だった。主人公の導きにより、あっというまに美しい女性へと変貌する。それはより男らしい肉体を具えていた主人公には、若い頃でも得られなかったものだ。
 物語は、主人公の「彼女」への複雑な思いを中心に進む。たしかに主人公は「彼女」になんらかの「欲望」を抱いている。しかしそれは、性欲、あるいは自分が手にできなかったものへの憧れなど、かんたんに名指すことのできるようなものではない。
 だから、たとえば妻に自分の女装について一切語らないのは、不誠実のゆえではない。相手に分かるような単純なことばにすることができないからなのだ。
 封印していた女装を解くこともあれば、おそらく再び封印、あるいは永久に諦めることさえあるかもしれない。それは自分にもわからない。女装とは「自分を普段とは違う何者かに変えているのだと思わせてくれ」るものだとすれば、主人公の欲望は同定ではなく、越境や揺曳にこそ向かっている。そのためには「ちょっとした間違い」が必要だ。
 女装に関して言えば、その揺れ幅は決して一様ではない。自分の肉体の変化、第二次性徴や老いというものに伴って必然的に変わってくる。「ファルセット」の欲望はこうしてつねに時間と共にあるのだ。

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