地方メディアの逆襲

第3回 ドキュメンタリーは生きている

毎日放送「〈映像〉の系譜」編

地方にいるからこそ、見えてくるものがある。東京に集中する大手メディアには見過ごされがちな、それぞれの問題を丹念に取材する地方紙、地方テレビ局。彼らはどのような信念と視点を持ってニュースを追いかけるのか? 報道の現場と人を各地に訪ね歩く「地方メディアの逆襲」。ドキュメンタリー「映像」シリーズの放送を長年続ける大阪・毎日放送に迫ります。

『映像』40年の歴史と報道機関の矜持
 「地域に密着したドキュメンタリー」を掲げ、1980年4月にスタートした毎日放送(MBS)の『映像』シリーズは今年で40周年を迎え、現在までに通算490本近い作品を放送してきた。月1回で年間12本。これを4人の専属ディレクターが持ち回りで担当する。つまり原則として、各自が1年に3本、50分のドキュメンタリーを作ることになる。
 番組を立ち上げたディレクターで、初代プロデューサーの貝谷昌治──『映像’80』の第1回は、沖縄戦で後遺症を負った人びとの苦しみを追う彼の番組だった──は定年退職後、大学の教壇に立ち、自ら著したドキュメンタリー論の教科書で、〈地方局には、ジャーナリスティックな目で、問題意識を持って対象に迫り、こだわっていく、「執念と情熱の狩人」のディレクターが多い〉と書いている。一方で、制作に専念できる地方局はほとんどないとも述べる。これはと思うテーマがあれば、日々のニュースや情報番組の合間に取材・撮影しておき、時々10分前後にまとめてニュース番組の特集で流す。その積み重ねで長編を作るのが普通だと。約20年前の記述だが、事情は今もそう変わらない。そんな中、MBSは貝谷の時代から専属の部署を置いてきた。

『映像』のHP。過去の番組情報や受賞歴の記載も

 「ディレクター4人に部長兼プロデューサーが1人という体制も、ほぼ変わっていません。この専門集団を維持していることが、毎月欠かさず40年間、放送を続けてこられた大きな要因でしょう」と澤田隆三・報道主幹は言う。彼自身、1994年から専属ディレクターを6年、2015年からは部長兼プロデューサーを2年務めた。
 ドキュメンタリストとしての澤田の歩みは、波乱から始まった。汚職事件の聴取中に急死した一人の公務員の人生を追い、95年1月に放送予定だったところへ、阪神・淡路大震災が発生。急遽、報道部総出で取材した『激震!その時人々はどうしたか~長田区菅原通3丁目の場合』の制作を担当した。板切れにペンで書かれた墓標に心動かされ、焼け跡の町に視点を定めたのだった。99年には、脳性麻痺の夫婦と6歳の息子の家族に2カ月間密着。日々の暮らしとユーモアあふれる夫婦のやり取りを描いた『ふつうのままで~ある障害者夫婦の日常』で、国際エミー賞ドキュメンタリー部門の最優秀賞を受賞した。さらに翌年、国鉄民営化から続く解雇撤回闘争を北海道に飛んで取材。夫が解雇された女性たちの姿も交え、『さいはての大地で~国労闘争団の14年』など2本を制作した。いずれも、ギャラクシー賞や民間放送連盟賞を受けている。
 『映像』の作品リストを眺めると、戦争の傷や差別に苦しむ人、老いや障害や病気を背負う人、在日コリアンや外国人労働者、災害被災者や遺族、冤罪や過労死など、立場の弱い者・国家や組織と対峙する個人の側に立つものが多い。それこそがドキュメンタリーの要諦とする伝統があるのだろう。
 現在のディレクター、斉加尚代は「この番組があるからMBSを選んだ」と話す。ただし、よく聞けば、社会への問題意識やジャーナリスト志向が強かったわけではない。男女雇用機会均等法施行の翌年、87年入社の斉加が第一に考えたのは、「女性が長く働ける職場」だったという。
 「大学は東京でしたが、宝塚市出身なので、関西に戻って長く働きたかったんです。子供服の会社とか業種に関係なく受けた中の一つがテレビ局。ちょうど在阪民放が女性総合職の採用を始めた年です。最終面接に二つ残り、どっちを選ぶかという時にMBSの『映像』が決め手になった。新聞ですか? 当時は、大阪社会部!事件記者!みたいな印象で、わたしには無理……と受けませんでした」
 入社後2年は社長室秘書部。3年目から記者として現場に出た。事件取材は無理と思っていたが、MBSで女性初の一課担(大阪府警捜査一課担当)も務めた。「セクハラがひどくて取材も大変でしたが、『女だからできない』と言われてはいけないと、自分の中では相当頑張った。その後、内勤(遊軍)になり、中学校の保健室登校に密着したのが教育取材の最初です」と振り返る。学校の現場を伝えるニュース特集を積極的に作り、『映像』など1時間番組も3本制作した。そんな歩みの先に今がある。
 斉加と同期入社のアナウンサーで、現在はドキュメンタリー映画監督の三上智恵は言う。
 「MBSは在阪局の中でもバンカラな、粗野だけど正義感あふれて情にもろい雰囲気があり、報道部の記者は輝いて見えました。その中でも特に優秀な人が『映像』班に選ばれるイメージでしたね。沖縄の局に移ってすぐ1本目のドキュメンタリーを作った時には、MBSの誰々さんならどうするだろうと自問しながら探っていったのを覚えています。あの頃のMBS報道部がわたしの背骨であり、今も仕事の基盤になっています」
 だが、視聴率という指標で見れば、現実は厳しい。平均で2%前後。3%台に乗ればいい方だ。放送開始時間も当初の23時30分からずるずる遅れ、今では日付を越えて24時50分、つまり月曜の午前1時前からとなっている。少数の熱心なファンと、賞という業界の評価に支えられ、かろうじて放送枠を守っている。これはMBSに限らず、地方局でよく耳にする現状だ。
 「いつの時代も営業的には厳しいドキュメンタリーに、これだけ人員を割いているのは、間違いなくMBSの報道機関としての矜持だと思います。逆に言えば、MBSが『映像』をやめるようなことがあれば、その時に何かが足下から崩れるのではないか、という危惧も覚えます」
 三上が古巣へ送る、祈るようなエールである。
 *RSK山陽放送(岡山・香川)は、水曜夜8時というゴールデンタイムに『RSK地域スペシャル メッセージ』と題したドキュメンタリー番組を8年以上続けている。