ちくまプリマー新書

差別を考えるとはどういうことか

『他者を感じる社会学』第一章より

他者を理解したい、つながりたいと思ったときに必然的に生じる摩擦熱、これが差別の正体だ。差別を考えることは、社会を考えること。「差別はいけない」と断じて終えるのでなく、その内実をつぶさに見つめてみたい。

第一章    差別とはどんな行為か

差別とはどのような行為なのでしょうか。私は、これまで論文やテキストに何度も書いてきていますが、やはりある有名な差別主義をめぐる定義から始めたいと思います。

差別主義とは、現実上のあるいは架空上の差異に普遍的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者が己れの特権や攻撃を正当化するために、被害者の犠牲をも顧みず己れの利益を目的として行うものである。
(アルベール・メンミ著、白井成雄・菊地昌実訳『差別の構造』合同出版、一九七一年、二二六頁ページ)

翻訳がこなれていないので、「告発者」という言葉はわかりづらいですが、要するに、差別主義者は、自分自身の特権や利益を守り、正当化するためには、相手がどう感じようがおかまいなく、相手を貶めたり、蔑むような言葉を投げかけたり、相手を排除する行動を平然と行うというものです。そしてそうした差別的な攻撃を受ける相手は、明らかに「被害者」なのだと。

自分たちの利益を守るために平然と行われる差別。どのようなものを思い浮かべるでしょうか。学校でのいじめやネットでの誹謗中傷などをすぐに思い出しますが、私は東京の新大久保、川崎、京都など、在日朝鮮人(以下、在日と略記)が暮らす街で繰り返し行われるヘイトスピーチのデモやネット上での攻撃はその典型だと考えます。

ヘイトスピーチ

在日の人たちの暮らしや生命を否定し、朝鮮へ帰れと連呼し、さらには彼らの生命や存在を全否定する抹殺の言葉を叫ぶ行為。その背後には、自分たち、つまり日本人はさまざまな形で在日から被害を受けているという根拠のない思い込みがあるようです。そしてメンミの定義に基づけば「現実上の差異」や「架空上の差異」をフル動員して、「在日朝鮮人とはこのような存在だ」という決めつけのもと、彼らを貶め蔑み、全否定するような言葉を連呼するのです。

多くの私たちはこう考えるでしょう。ヘイトスピーチをする人たちは、在日に対して強烈な偏見をあらかじめ持ち、過去に在日からひどい目にあってそこでつくられた否定的なイメージや思いに凝り固まっていて、その意味で世界が狭く、ものの見方も偏狭な、ごく限られた人たちに違いないと。確かにそのような人もいるだろうとは思います。しかしヘイトスピーチを行い、活動している人々を分析した社会学者によれば、彼らの生活歴や学歴や暮らしぶりも多様であり、必ずしも在日との否定的な経験を持っていないようです。要するに、限定的な状況にある特別な人たちがヘイトスピーチに熱中しているのではありません。彼らもまた、どこかで今の社会や政治、暮らしに不満をもち、違和感を覚え、何かの動きを通して、その状況を変えたいと考えている、「私たちと同じような人」たちと言えます。

もちろん、世の中に不満を持ち、差別主義的な攻撃に走ることは、見当違いです。そんな攻撃で、世の中が変わることはありません。ただ私はなぜ「私たちとおなじような人」たちが、少し冷静に考えてみればわかるような問題のある差別的攻撃に熱中してしまうのかを、さらに考えてしまいます。

太平洋戦争敗戦後、社会的・政治的な混乱のなかで、「在日」がつくられていく歴史を正確に理解し、芸術や芸能文化をはじめとする日常の暮らしのあらゆる場面で在日の人たちがいかに活躍し貢献しているのかを考えてみるだけでも、彼らの主張がいかに誤っており、強引で、非現実的かがわかります。

もし、国家を愛するという気持ちは純粋なもので、私たち日本人であれば当然もつべきだろうと主張し、日本という国家のためだという愛国主義的な思想や気持ちから「在日」に対してヘイトスピーチのような営みをしているというのであれば、私はこう考えます。

国家を愛する気持ちは大切であり、否定するつもりはありません。でも日本という国家を愛する証として、自分たちとは異質な文化をもつ人種や民族を、一切有無をいわせず排斥する行為は、はたして本当に「愛している」ことになるのでしょうか。差別主義的な愛国の営み、差別を積極的に活用して日本という国家や日本人を正当化する営みは、本当の意味で「国家を愛している」証とは決してならないのです。

差別とはどのような行為なのかという問いから始まり、少し脱線してきているようですが、もう少し、脱線してみたいと思います。

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