はじめての哲学的思考

第8回 ここから思考をはじめよう

      ——帰謬法を封じ込める

 前回、決して議論に負けない議論術“帰謬法”についてお話しした。
 そのポイントは、あけすけに言ってしまえば、「それもたしかじゃない」「それも絶対とは言えない」と、相手を否定しつづけることにある。
 僕たちは、言葉の上ではどんな命題だって否定することができる。帰謬法の使い手たちは、その否定論法を、長い歴史を通して鍛え上げてきたのだ。
 でも、これまで繰り返し述べてきたように、哲学とは本来、“共通了解”を見出し合うための思考の方法だ。だから、もしもそれが否定のための否定論法だったなら、そんなもの、僕に言わせれば哲学の名に値しない。
 実を言うと、哲学の歴史は、ある意味ではこの帰謬論との戦いの歴史だったとも言える。哲学史には、要所要所で強力な帰謬論者たちが現れている。でも僕の見るところ、彼らはそのたびに、次の時代のすぐれた哲学者たちによって、その論理を封じられてきたのだ。
 そこで今回は、一見「無敵の論法」のように思える帰謬法を乗り越える、哲学的思考の第一の“奥義”をお伝えすることにしたいと思う。

「我思う、ゆえに我あり」

 その最初の道を切り開いたのは、17世紀フランスの哲学者、ルネ・デカルトだった。
 デカルトの有名な言葉に、「我思う、ゆえに我あり」というのがある。
 実はこれこそ、帰謬法を封じるために見出された最初の“奥義”だった。
『方法序説』という本の中で、デカルトは次のようなことを言っている。

 帰謬論者たちが言うように、たしかにあらゆる命題は否定可能だ。疑い反駁することができる。
 たとえば、感覚は僕たちをあざむくことがあるから、氷は本当は冷たくないのかもしれない。夏は寒いのかもしれないし、冬は暑いのかもしれない。
 数学だって、絶対とは言えない。もしかしたら、全員が計算まちがいをしている可能性だってある。
 もっと言えば、この目の前の世界が、実は僕たちの夢かもしれないとだって疑うことができる。
 ちなみに、古代中国の『荘子』にも、「胡蝶の夢」という似たような逸話が登場する。蝶になって空を飛ぶ夢を見ていた荘子が、夢から覚めて、はて、自分は本当に蝶の夢を見ていたんだろうか、それとも、実は今蝶が自分の夢を見ているんだろうか、と疑問に思う話だ。
 と、こう考えれば、僕たちはこの世のあらゆることを疑うことができてしまう。
 ――でも本当にそうなのか?
 デカルトは考えた。
 どれだけ疑い否定しようと思っても、最後の最後までどうしても疑えないものがあるじゃないか。
 一切を疑っている、この“わたし”自身。世界を疑っているのが“わたし”である以上、この疑っている“わたし”自身は、どうがんばっても疑うことなどできないじゃないか!

 これが、「我思う、ゆえに我あり」(ラテン語でコギト・エルゴ・スム)という言葉の意味だ。
 この言葉をもって、デカルトは新時代の哲学を切り開いた。「たしかなものなど何もない」という、帰謬法を駆使する人たちがはびこっていたこの時代、デカルトはついに、彼らの論法をひっくり返してみせたのだ。

“わたし”だって疑える?

 でもこのデカルトの議論には、実はある致命的な問題があった。
 厳密に言えば、僕たちはこの“わたし”自身だって、疑うことができてしまうのだ。
 昨日の“わたし”と今日の“わたし”が、絶対に同一人物であるかどうか、僕たちは疑おうと思えば疑える。
 眠っている間に、だれかに記憶を操作されて、別の人間にされてしまった可能性だってある。
 人間の細胞は、数年かかって全部入れ替わると言われている。だから、数年前の“わたし”と今の“わたし”は、同じ人間じゃないと言うことだってできるかもしれない。
 もっともデカルトも、こうした批判が寄せられるのは最初から想定ずみのことだった。そこで彼は、この批判を次のように封じようとした。
 まず、彼は“わたし”を身体と精神とに分けることを主張した。そして、肉体としての“わたし”はたしかに疑えるけど、精神としての“わたし”は疑えないのだと言った。
「心身二元論」と呼ばれる、デカルト哲学のもうひとつの核だ。
 身体と精神とを切り分けておけば、細胞が全部入れ替わったら云々とか、この“わたし”も、目に見えるままに存在しているかどうかは分からないとかいった批判を封じ込めることができる。

 ――でも、これはやっぱり、かなり無理のある考えだった。
 人びとは思った。え? 何? 身体と精神って、本当に別ものなの? て言うか、そもそも精神て何? 見えるの? さわれるの? いったい何なの?
 デカルトの心身二元論に、納得できる人はそう多くはなかったのだ。

フッサールの「コロンブスの卵」

 それから300年、デカルトの哲学を批判的に継承し、この問題についにケリをつけた男が現れた。
「現象学」という新しい哲学を創始した、20世紀ドイツの哲学者、エトムント・フッサールだ。
 フッサールは言った。
 僕たちがどうがんばっても疑えないのは、精神とか肉体とかいった、何らかの“実体”を持ったこの“わたし”じゃない。肉体はたしかに疑えるし、精神と言われても、いったい何のことやらよく分からない。
 もっとシンプルに、次のように言おうじゃないか。
 僕たちには、どれだけ疑っても疑えないものがある。それは、今僕たちに、何かが「見えちゃってる」「聞こえちゃってる」という、ちょっとむずかしい言葉を使えば“意識作用”だ。別の言い方をすれば、今僕たちに、何かがたしかに「見えてしまっている」というその“現象”だ!

 これはコロンブスの卵みたいな発想だった。
 帰謬論者・懐疑論者が言うように、目の前のグラスは、もしかしたら実在しないのかもしれない。幻影かもしれないし、夢かもしれない。グラスの中の液体は、もしかしたら水じゃないのかもしれないし、いっしょに入っている氷は、本当は冷たくないのかもしれない。
 でも、それでもなお、今僕にはこのグラスが「見えてしまっている」。喉を通ったこの液体を、水だと「思ってしまっている」。そしてこの氷を、冷たいと「感じてしまっている」。
 この“意識作用”を、僕たちが疑うことなどできるだろうか?
 フッサールは言う。もしもこのことにさえも反駁しようとする人がいたとしたら、そんな人たちに、僕たちはもう語るべき言葉をもたないだろう、と。

「それは見ていない者が見えることを否定しようとするようなものであり、もっと適切に言えば現に見ている者が自分が見ている事実や見る働きのあることを否定しようとするようなものである。もしも彼があくまでも自説を変えないとしたら、いったいわれわれに彼を納得させるすべがあるであろうか?」(フッサール『現象学の理念』)

 こうしてフッサールは、どんな帰謬論者も懐疑論者も、決して反駁することのできない“思考の始発点”を提示した。
 デカルトの言うような、実体をもった“わたし”ではなく、世界がこのように「見えちゃっている」「感じられちゃっている」という、“意識作用”それ自体。もうちょっと別の言い方をすると、わたしに立ち現れた、何らかの“確信”“信憑”。これだけは、どんな帰謬法によっても否定することはできないのだ。

帰謬法のカラクリ

 僕たちは、言葉の上ではどんな命題だって否定することができる。でも、そんな否定合戦ばかりつづけていれば、お互いを理解し合おうとする意志や、対話することの希望を、いつかは失ってしまうことになるだろう。議論することのむなしさを、ただ感じてしまうだけだろう。
 でも今、僕たちはついに、帰謬法を完全に封じ込める思考を手に入れた。

 帰謬法には、実はあるカラクリがある。
 それは、どんな議論も「真か偽か」の対立に持ち込み、その上で相手の主張が「偽」であること、あるいは「真」とは言えないことを論証するというものだ。
 でも、これは実を言うと、前に紹介した「問い方のマジック」なのだ(第6回)。こうした二項対立的な問いは、実は問いの立て方それ自体をまちがってしまっているのだ。
 前回、帰謬論者は、「それも人それぞれでたしかじゃない」とか、「時と場合による」とか言って、あらゆる命題を相対化しようとすると述べた。だから、「この人はやさしい人だ」という主張も、「この学校はいい学校だ」という主張も、帰謬論者にかかれば全部相対化されてしまう。
 でも、それはあくまでも、「真か偽か」というレベルで議論をしている場合の話だ。
 これまでずっと言ってきたように、僕たちにはそもそも「真理」なんて分からない。つまり、帰謬論者に言われなくても、あらゆる命題は「真」とは言えないなんてことは、哲学的には織り込み済みの前提なのだ。
 そうである以上、ある命題が「真か偽か」なんて、はっきり言ってどうでもいい問題だ。いっさいは僕(たち)の“確信”“信憑”だ。だから、「真か偽か」という問いは、そもそも問いとして成り立たないのだ。
 その一方で、もしも僕が、「この人はやさしい人だ」とか、「この学校はいい学校だ」とかいう“確信”“信憑”を抱いてしまったのだとしたら、そのこと自体を疑うことはできない。
 もちろん、その“確信”“信憑”が、勘違いだったとか、いつか変わってしまうとかいうことはある。でも、今僕が「この人はやさしい人だ」と感じてしまったそのこと自体は、どうがんばっても否定することはできないのだ。
 だから僕たちが問うべきは、本当は次のような問いであるべきなのだ。

「これがわたしの“確信”。ではあなたはどうですか?」

 哲学は、ある命題が「真か偽か」を明らかにするものじゃない。何度も言ってきたように、お互いの“確信”“信憑”を問い合うことで、“共通了解”を見出し合おうとする営みなのだ。

 ちなみに、ここで言う“共通了解”にも、絶対的な了解なんてものはもちろんない。どこまで行っても、それは相手との間に了解が得られたという、僕自身の“確信”“信憑”なのだ。
 でも、だからこそ僕たちは、この“共通了解”の“確信”“信憑”を求めて、お互いにコミュニケーションをつづけていくほかにない。
 もしも僕たちが、対話への希望を少しでも持っているのなら。

“思考の始発点”を敷く

 なんてめんどくさい議論、と思われたかもしれない。「それがいったい何の役に立つの?」と思われた方もいるだろう。
 でも、僕の考えでは、これは哲学的思考の一番大事なキモなのだ。
 哲学の最大の意義は、僕たちの“思考の始発点”を敷くことにある。だれもが納得できるその始発点さえ定めることができれば、その土台の上に、僕たちはより実践的な、力強い思考法を積み上げていくことができるからだ。
 逆に言えば、もしも僕たちが“思考の始発点”をまちがってしまったら、それにつづく思考は全部的を外してしまうことになる。たしかな“思考の始発点”を定めることは、だから哲学の命とも言うべきことなのだ。

 次回以降は、今回の話を土台にして、より実践的な、“役に立つ”哲学的思考法を展開していくことにしたいと思う。
 実は今回明らかにした“思考の始発点”は、個人的な問題から社会的・学問的な問題にいたるまで、あらゆる問題を解き明かすための、無限の応用可能性を秘めたものなのだ。
 

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