オンライン授業で対面を考える

オンライン授業で「対面」を考える

 新型コロナウィルスの感染拡大にともない、この4月以降、全国の大学では通常の授業に代えてZoom等を使ったオンライン授業が行われた。オンラインはもちろん授業だけではない。教授会をはじめとする各種の会議もまたオンラインである。企業の会議と変わらない。私はいまは大学では非常勤の身なので会議に出ることはないが、授業は何コマか受け持っている。そこでいくつか考えさせられることがあった。後期からは多くの大学で従来型に戻るようだが(当面は併用という大学も少なくないようだ)、またオンラインに戻る可能性も否定できない。この機会に、オンライン授業について「対面」という観点から少し考えてみたい。なお、オンライン授業には、リアルタイムで行われる「同時双方向型」と、あらかじめ作成した動画教材ないしテクスト教材に学生が随時アクセスするオンデマンド型とがあるが、両者はあり方がかなり異なる。私がここで問題にするのは前者である。

 

「オンライン授業」対「対面授業」

 オンライン授業にたいして、教室でじかに学生と向き合う従来型の授業はしばしば「対面型」と呼ばれる。「オンライン授業」対「対面授業」。後者の命名は、おそらく便宜的なもの(他にもっとふさわしい略語が見当たらないから)にすぎないのだろうが、それでも私には違和感がある。従来型の授業だって真に対面的とは言えないとか、そういうことではない(学生の目を見てしゃべらない教師や、スライド教材の多用など、こうした見方を補強する材料はいくらもあるが、いまはこの議論には立ち入らない)。そうではなく、オンライン授業もまた、ある意味で「対面的」だと思うからである。しかし問題は単純ではない。

 私の大枠の考え方はこうだ。情報・通信技術や軍事テクノロジーの開発がおしなべて遠隔化・脱身体化の方向で推し進められ、人間のコミュニケーションにおいて「対面的」なものが急速に後退してゆくという時代の大きな流れのなかにあって(詳しくは拙著『対面的──〈見つめ合い〉の人間学』筑摩書房、2016を参照されたい)、オンライン授業も(オンライン会議も)これに沿ったあまたの現象のうちのひとつとして捉えることができる。たまたまコロナ禍がこの流れを加速し、高等教育の現場でもリモート方式の授業が採り入れられたということである。この意味でそれが非対面的であるのはまちがいない。

 オンライン授業はなるほど、じかの、「なま」の対面ではないという意味で非対面的である。電子画像を媒体とするこの教員・学生関係の間接化は、いうまでもなく重大な結果をもたらす。そこには、ひとことで言えば、気配というものがない。匂いもなければ、まなざしの交換も、それが強いる緊張もない。「逃げ場がない」という圧迫感もない(逃げたければ目の前のパソコンやスマホをオフラインにすればいいだけである)。オンライン授業になって学生の出席率は上がったのではないだろうか。いま述べたような理由から、通常の授業は無理だがオンライン授業なら出られると感じる学生は少なからずいると思われるからである(もちろん、通学の手間がかからず、自宅に居ながらにして授業が受けられるという安易さもあるだろう。「ぎりぎりまで寝ていられる」と言う学生もいる)。

 教師の側にも、身体的リアリティーの欠如やコミュニケーション上の「もどかしさ」と引き換えに、ある種の「やりやすさ」を感じる者もいるにちがいない。少なくとも私の場合はそうだった。オンライン授業には、従来型の授業では避けられない「雑音」がないからだ。とりわけ、教室という場であれば生じかねない学生どうしの私語がない。学生が教師に隠れて「内職」するのもむずかしいはずである。したがって、教師は知的メッセージの伝達に集中できると感じるのである。いわば「脳と脳との対話」が可能だと思ってしまうのだ。高等教育の理想が(初等・中等教育とはちがって)いっさいの身体性を排した純粋な知的伝達──ありていに言うなら、教師は本を書くように語り、学生は本を読むようにそれを聞く──にあるとするなら、これは理想的な教育環境であるのかもしれない。ふだん天井ばかり見ながら講義をする教師は、わが意を得たりとばかりにオンライン授業を歓迎するのかもしれない。

 しかし、知的伝達にフォーカスしたオンライン授業に、はたして学生は随いていけるだろうか。評価は人によってさまざまだろうが、私は悲観的である。この種の授業を享受できるには、かなりの知的成熟と学習意欲が必要だと思うからだ。学生の理解度は、授業時の反応や試験やレポートの結果で判断するほかないが、私の見るかぎり、学生の「うわの空」度、「ただ出ているだけ」度は通常の授業と比べても高い。それもそのはずで、彼らのマインドを授業に繋ぎとめるものといって、ただパソコンやスマホの前に身を置いているということ以外にないのである。生身の教師を目の前にしているときの緊張はもちろん、大学に行けば得られる学問的環境や知的雰囲気も、他学生との交わりから受ける刺激もないのだ。そのうえ、教師の方は、おそらく一種の不安あるいは後ろめたさから、オンライン授業ではやたらと「目の詰まった」授業をしようとする。これでもかと情報満載の授業をしようとする。繰り返し聴けるオンデマンド授業ならまだしも、リアルタイムのオンライン授業でこれをやられると学生はとうてい随いていけない。

 全国大学生活協同組合連合会が7月下旬に学生約9千人を対象に行ったアンケートの結果を見ると、「課題が多すぎる」、「教員はそれが分かっていないのではないか」と訴える学生が非常に多い。課題の多さはおそらくオンデマンド型の授業に顕著に見られるものだろうが、「同時双方向型」でもその傾向はあるにちがいない。教員は自分の授業のことしか考えないが、いくつもの授業を受けている学生にしてみれば、これは拷問にひとしい。すべての教員が授業のたびに課題を与えはじめたら、学生の頭がパンクするのは目に見えている。

 授業を受ける学生の「うわの空」度について述べたが、これはもちろん比較の問題である。従来型の授業でも授業内容の6、7割が学生に伝わればいいところだろう。しかし生身でする言葉のやりとりには、知識の伝達を超えた何かがある。それが何であるかを言うのは容易ではないが、それは「そこにいる」ということから来る何かである。あえて極論すれば、授業のミッションは、教師がそこにいて、学生もまた同じ空間を共有しているという、この一点が満たされれば、すでに半ば遂行されたも同然なのである。この「場の共有」が知識伝達の穴を埋めてくれる。これは高等教育でも変わらないはずだ。逆にいえば、そうしたものの欠如がオンライン授業の貧しさにほかならない。きっちり定刻に始まり、そしてまた定刻になると跡形もなく消えてしまうオンライン授業には、「余白」も「行間」もない。それは、余談や脱線を「無駄」と感じさせる装置である。効率優先へと駆り立てる装置である。教師の過剰な授業準備もそこに起因するのではないかと思われる。

 

自分自身との対面

 オンライン授業は、教師と学生の対面関係が電子媒体で間接化されているという意味で非対面的だと先に述べた。しかし、言葉を換えていえば、これは疑似対面である。「デジタル対面」と呼んでもいいかもしれない。対面は対面なのである。しかも、Zoomの画面上で教師はすべての学生と「等距離」である(とくに「ギャラリービュー」の場合)。学生はひとりひとりが切り離されて教師と「対面」している。つまり、教室での授業における教師と学生の対面関係が一対多であるのにたいし、ここではそれはむしろ一対一的なのである(一対一対面の集合と言うべきかもしれない)。

 考えてみたら、そもそもオンライン・ミーティングというのは、二人だけの場合も、つねに対面的である。オフラインで人と人が会うときは、二人してバーのカウンターに坐るときのように「横並び」が可能だが、オンラインではそれはありえない。

 ただ、細かいことをいうと、オンライン授業では参加者どうしの「目と目が合う」ことはない。視線は微妙にずれている。これはPCでカメラと画面が離れている場合にとくに感じられることだが、画面からこちらをまっすぐ見ている者は、本当はカメラ目線なので、じつはモニター上の私を見ていないし、またモニター上の私を見ている者は、私とは目が合わない。全員がどの相手とも決して目が合わないのである。これは「疑似対面」の「疑似」のもうひとつの側面であるが、オンライン授業のやりにくさの一因でもあると思われる。

 私は、『対面的』という本で、対面性は本質的には対面者相互の意識の問題であって、そこに「対面的磁場」が生じるかどうかが決め手なのだと説いた。オンライン授業でも、「磁力」は弱いが、対面的磁場は生じると思う。その証拠に、というべきか、オンライン授業には、参加するにはするが顔は見せないという学生がけっこういる。「ビデオの開始」ボタンをオンにせず、声だけで参加する「覆面」学生である(学生の名前は真っ暗な画面枠かプロフィールアイコンの上に表示される)。大学もそれを認めているようである。声での参加も勘弁してほしいという学生もたまにいる。私は当初、この「覆面」参加の理由を、「デジタル対面」すらも・・・今の若者の一部には心理的に重すぎるということなのだろうと考えた。いまもその考えは基本的には変わらないが、事情はもっと複雑であることがのちに分かった。

 オンライン授業でなぜ「顔出し」をしないかについてはさまざまな立場や意見がある。学生によってはデバイスやWifi環境がビデオ機能を使うのに適していない(すぐに容量オーバーになる等)というのがひとつ。これは設備にかかわることなので斟酌せざるをえない。私の授業でも、登録者16人中ひとりがこれを理由に顔を見せなかった。もうひとつは、学生のプライバシーが侵される危険があるというもの。Zoomミーティングは通常閉じた回路で行われる(非登録者は参加できない)とはいえ、授業の映像はいつでも録画可能であり、それが別のところで「悪用」されない保証はないというものだ。これがもっとも頻繁に取りざたされる理由ではないかと思われる(学生の住環境が暴かれるということもあるが、それはバーチャル背景で隠すことができる)。学生によっては「今日はひどい顔をしている」、「メイクをしていない」などを理由にしようとする者もいた。

 もうひとつ、これは学生や他の教師に直接聞いたことではないが、企業のオンライン会議での「顔出し」の是非をめぐる議論をネットで読んでいて気づいたことがある。それは、そもそも「顔出し」は授業(会議)に必要ないのではないか、オンライン授業(会議)の画面スペースは限られているのだから、顔より資料にそれを使うべきではないかといった意見があるということである。これはじつは論駁のむずかしい、本質論的な議論である。先述した「純粋な」知的伝達としてのオンライン授業の論理を突き詰めれば、そこに行き着かざるをえないからだ。もちろん、学生の反応をたえず汲みとりながら進めねばならない演習タイプの授業もあれば、逆に、通常なら大教室で数百人の学生を相手にやるような一般教養型の授業もあるので、一概には言えない。しかし「顔出し」拒否の根底にあるのは、この「顔出し」不要論、つまりは「顔は授業にとって非本質的である」という議論なのではないかと思う。

 さらにもうひとつ、学生側の心理に直接かかわる理由がある。私はある時点までこれにまったく思いいたらなかったが、あるとき授業でオンライン授業についての感想を学生に求めたさい、ある学生にこれを言われてはたと気がついた。その学生は、オンライン授業には抵抗がある、なぜなら「自分の顔を見たくないから」と言ったのである。これは先ほど挙げた「今日はひどい顔をしている(つまり「人様に見せられるような顔ではない」)というのとはまた違う。授業のたびに自分で自分の顔を見なければならないのが辛いということなのである。オンライン授業は自分自身との対面・・・・・・・・でもあるのだ(ちなみに自分との対面というものは、じかの対面ではありえず、つねに何らかの形で間接化された対面であるほかない)。これは従来型の授業ではまったく起こりえなかった事態である。

 じっさいオンライン授業は奇妙な対面状況をつくり出す。Zoomでは、「画面共有」をしていないときには、「スピーカービュー」(話している者だけが大きく映り、他の参加者は均等に小さく映る)であれ、「ギャラリービュー」(参加者全員が均等な画面分割で映し出される)であれ、参加者がよほど大人数でないかぎり、学生は自分の顔を見ないわけにゆかない(もちろん教師も同様である)。画面の前に生身の自分がいて、画面のなかに映像化された自分がいる。それらは同時的なので、まるで鏡に映る自分を見せられているようなものだ。それだけではない。画面のなかの自分の顔は、他の学生の顔と並置され(この「並置感」も看過できない)、それがみんなの視線にさらされている。従来の教室での授業では、ふつう学生全員が教師の方を向いて坐っているので、自分自身とはもちろん、他の学生と対面することもない。しかしオンライン授業では、「デジタル対面」であるとはいえ、それが可能となるのである。

 

今後に向けて

 新型コロナウィルスの感染状況によっては、大学でのオンライン授業はやむをえない措置である。そのことを否定するつもりはもちろんない。ただ気になるのは、これをあたかも未来型の授業のあり方ででもあるかのように語る言説があるということである。いや、事は授業方式の問題にとどまらない。5月の西村経済再生担当相の「スマートライフ」発言をはじめとして、昨今、「密」を避け、「ソーシャル・ディスタンス」を守り、あらゆる分野でオンライン化を推進することが、あたかも未来型のライフスタイルであるかのように喧伝される傾向がある。こうした変化が知らず知らずのうちに人間のコミュニケーションそのものにどれほど重大な影響を及ぼすかには露ほども思いをいたさない、性急で軽薄な傾向というほかない。オンライン授業がウイルスフリーであるという理由でやむなく採り入れられた授業方式なら、ウィルスの脅威がなくなった時点でやめればいい。それだけのことだ。「ポストコロナ時代」の到来をことさらに、まことしやかに語る言説には注意したほうがいい。

 一方、ウィルスの脅威がなくならず、オンライン授業を続けなければならないとしたら、それなりの理解と覚悟が必要だろう。先に見たように、従来型の授業とオンライン授業の対立は、単純な対面・非対面の対立ではない。前者を「対面授業」と呼ぶことは、誤解をまねく危険性すら孕んでいる。オンライン授業にも対面的要素──自分自身との対面、および他学生との「対面」(見る・見られる関係)──が潜むからである。私はこれが学生たちに独特の心理的負荷をかけているのではないかと思う。その根底には、オンライン行動そのものがもたらす目に見えないストレス(あるいは非充足感)もあることだろう。先に言及した全国大学生協のアンケートでも、体調についての質問に半数近くの学生が「やる気が起きない」「ストレスを感じる」と回答している。これはオンライン授業に特化した感想ではないが、無関係とは言えないだろう。いずれにしても、一見ストレスフリーに見えるオンライン授業がかける心理的負荷に、われわれはもっと意識的でなければならない。

 オンライン授業をやるなら、私は「顔出し」は必要だと思う。デバイスやWifi環境にかかわる純粋に技術的な問題がある場合は別として、大学はこれを「出席」の条件とすべきだと思う。これは、これまで述べてきたことと矛盾すると思われるかもしれないが、そんなことはない。

 先に私は、おもに学生の観点から、「顔出し」しない・できない理由について述べたが、反対に、とくに教師の観点から、顔を隠されては困る理由もある。ひとつは、オンライン化でそれでなくても損なわれている授業の「臨場感」がさらに低下する、したがって教師も学生も緊張感やモチベーションが保ちづらいということがある。プロフィールアイコンだらけの画面を前に授業をする(受ける)ことの虚しさは、オンライン授業をしたことのある者なら誰でも知っている(あるいは想像できる)はずだ。もうひとつ、顔を出さない学生は教師のほぼコントロール外にあり、「声出し」やチャットでときどき確認しないかぎり、どこで何をしていようと分からないということがある。学生を信用しないというのではない。むしろよけいな疑念を抱かないためにも、「ズルをする」余地は技術的にできるだけ排除しておいた方がいいと思うのである。

 授業に出席するかしないかは学生の自由である。それを強制することはできない。しかし出席するのなら、通常は教室に来る必要があるのと同様、オンライン授業では最低限の身体的プレゼンスとして「顔出し」が必要だと思う。それがマナーというものだ。大げさにいえば、それは「契約」の問題でもある。契約不履行となれば、それがもたらす結果も甘んじて受け入れねばならない。よくいわれる「学生への配慮」は、こうした大人の関係までをも崩すものであってはならない。学生には画面のなかの自分自身ともしっかり向き合ってほしいと私は思う。

 「覆面」を容認し、オンライン授業の敷居をなるべく低くしておいて、その一方でオンライン授業がもたらすさまざまな負荷(こなしきれない課題、多面的な心理的ストレス)には無頓着である──これは学生を一種のダブルバインド状況(受け入れられていると同時に拒否されていると感じるねじれた心理状態)に置くものではないだろうか。

 いずれにしても、いまオンライン授業を「正しく知る」ことが急務である。  

2020年11月13日更新

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大浦 康介(おおうら やすすけ)

大浦 康介

文筆家、京都大学名誉教授。専門はフランス文学・文学理論。著書に『誘惑論・実践篇』(晃洋書房)、『フィクション論への誘い』(編著、世界思想社)、『対面的──〈見つめ合い〉の人間学』(筑摩書房)、『大洪水以後』(朝日出版社)など、訳書にヤン・アペリ『ファラゴ』(河出書房新社)、ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』(筑摩書房)などがある。

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