ちくま文庫

自らに固有の「巣」を作るために

『現実脱出論 増補版』(坂口恭平)解説

「現実は一つではない」と語る坂口恭平さんの『現実脱出論 増補版』。「現実」を軽々と乗り越える本書を安藤礼二さんがじっくり読む。

 現実を脱出するとは、現実から逃避することではない。

 そうではなく、現実というものが一体何であったのかをあらためて知るためにいったん現実の外側に出て、そこに立つことである。外側から見た現実は、これまでとはまったく異なった相貌をあらわにする。そこでは時間は均等に流れておらず、空間もまた均等に広がっていない。時間は早まり、あるいは停滞する。空間は縮まり、あるいは膨張する。

 現実は一つではない。

 坂口恭平はそう宣言する。人はそれぞれ異質の時間と異質の空間を生きている。より正確に言うならば、自分に固有の時間と空間をいまこの場に作り上げ、そこで生活している。幼い頃から「僕」は「巣」を作り続けてきた。自分に与えられたありあわせの「もの」から、自分にしか作ることができない「巣」を作ってきた。だから建築家を志した。坂口はそう語っている。

 大学で建築を学びはじめた坂口がはじめて深く掘り下げていった対象もまた自分のように、しかし自分とはまったく異なった方法で「巣」を作り続けてきた人々、路上生活者と呼ばれる人々が身のまわりの「もの」から作り上げた個性的で創造的なさまざまな「家」だった。そうした「家」を訪ね、ともに生き、その在り方を記録したものが坂口の大学卒業論文となり、最初の書物、『0円ハウス』(リトルモア、二〇〇四 年)となった。

 フィールドワークの記録であり、写真集であり、ドローイング集でもあるその特異な書物の末尾に坂口はシンプルではあるがきわめて美しく、同時にこれから自分が進んでいく道を暗示するかのような「あとがき」を付している。「路上の家には創造性と現実性が同時に溢れかえっている」。そこにはどれ一つとして同じものはない。「住人自らが作った家というものは、絶えず運動と変化を繰り返し、秩序とずれが同居している。輪郭は常にゆらゆらと揺れ、しかもそれが調和を生み出している」。鳥が 「巣」を作るようにして建てられたそうした「家」は、現実という三次元の世界、現実を成り立たせている三次元の知覚を軽々と乗り越え、そこに現実の外側に確実に存在している高次元の世界にして高次元の知覚を切り拓いてくれるのだ。「路上の家は、まさに人間の持っている柔軟で複雑な高次元の知覚そのものとなっていた」。

 それでは一体なぜ、路上生活者と呼ばれている人々がそのような独自の「家」を建てることができ、自らに固有の「巣」を作ること、つまりは創造的な建築家であることを目指してきた坂口が、彼ら、彼女らにこれほど深く共感することができたのか。 いずれも「正常」とされる均質で均等の時間と空間、すなわち現実から排除されてきた者たちだったからだ。本書のなかで、坂口はこう書き残してくれている。「これらの人々は、現実では路上生活者、精神障害者、認知症患者などと枠にはめられてしまう。そして、現実的にはあり得ないことや、捉えることのできないことをする人間と して、すみやかに排除される。もちろん、安定した社会を円滑に進めていくという目 的のために」。

 現実から排除されてきた者たちであったからこそ、現実というものを相対化でき、その外側に立つことができたのだ。坂口もまた一つの病を、躁鬱病という二つの極のいずれにおいても現実から離脱せざるを得ない病を生きなければならない「病者」であった。病は旅をすることに似ている。坂口はそう記してもいる。高次元の世界への、 高次元の知覚への移行である、と。現実とは異なった時間と空間に身を移さざるを得なくなった者たちからあらためて現実を捉えたとき、それはどのように見え、どのように感じられるのか。

 現実こそが逆に仮想空間なのである。リアルではなくヴァーチャルなのである。

 一つの現実という理解こそが作り物、フィクションだったのだ。実際に人々が生きている現実とは、つねに流動し変化することをやめない多層構造をもつものであった。 いわゆる一つの現実とは、そうした複雑で混沌とした高次元の知覚にして高次元の世界をきわめて単純化し抽象化した果てに見出されたものに過ぎなかった。だから、現実を絶対視し、それに盲目的に従ってしまうことから不幸が、死にまで至る自己破壊がはじまってしまうのだ。

 しかしながら、坂口はフィクションとしての現実を一概に否定し去るわけではない。 現実がなければ異なった人間同士、異なった「巣」にして異なった世界同士が互いに交流することは不可能になってしまう。現実とは、異質なもの同士の間にコミュニケーションを可能にするために共同で作り上げられたフィクションだった。人間という 集団が作り出さざるを得なかった「生き延びるための建築」だった。だから、現実が はじめて可能にしてくれたコミュニケーションを否定するのではなく、それを豊かにしていかなければならないのだ。 「生き延びるための建築」を多種多様に展開し、豊饒化していく。そのためには、一体どうしたらいいのか。自らの内に「思考の巣」を育むのだ。現実とは異なった別の空間、別の時間の芽となるもの、新たな知覚、新たな感覚の芽となるものを育んでいく。「思考」とは現実とは別の空間にして別の時間、新たな知覚にして新たな感覚の設計図となるようなもののことだった(なんとも新しく、きわめて新鮮な「思考」の 定義である!)。そして、そのような「思考の巣」とは、人間であれば誰でもがもっ ている根源的で原型的なものでもあった。

 誰もがそこに還っていき、誰もがそこから生まれてくる場。だから「巣」だったの だ。坂口自身の言葉を借りれば、こうなる。「思考とは、人間がその営巣本能によって内側に形成した「巣」なのだ」、と。森羅万象あらゆるものから発する声を聴き、 それゆえ森羅万象あらゆるものに生命を感じ取っていた「太古の人」のように、生命をもったあらゆる「もの」から「巣」を作り直す、つまりは時間と空間を組織し直さなければならないのだ。

 坂口はさらに考察を進めていく。「思考の巣」をもつのは人間だけに限られない。 坂口は「太古の人」のように外界を繊細に感受せざるを得ない「病者」としての自分 を解剖していく。いま自分が生きざるを得ない躁鬱病、それは幼虫から蛹 さなぎ をへて成虫 へといたる「変態」を体験しているようなものではないのか。そうだとしたなら、病という個性を抱えることで、人間には昆虫へと変身していく道がひらかれている。坂 口は、あたかもカフカのように、あえて言うならば「野生」のカフカのように思考し、 表現し、生きている。そして、自らを実験台として、こう結論を下す。あらゆる生命体が「思考の巣」を自らの内に孕んでいる。動物も植物も、あるいは鉱物でさえ、自分が生きている独自の環境を認識し、そこから糧を得ている。だからこそ、人間は動物にも植物にも鉱物にもなることができる。


     *


 坂口恭平がまとめあげた本書、『現実脱出論』をはじめて読み終えたときの衝撃はいまだに忘れることができない。ここには間違いなく独創的な哲学、「野生」の表現哲学としか名づけることができない「思考」の軌跡が記されている。きわめて個人的な体験にもとづきながら、それがある種の普遍にひらかれている。そう驚嘆させられた。

 私がまず真っ先に思い浮かべたのが、私自身が編集者から批評家へと変身していく過程で最後に手がけた一冊の書物、結局刊行まではたずさわることができなかった一冊の書物との共振であり、交響であった。フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズが自らの意志によって遺著と位置づけ、刊行した『批評と臨床』(一九九三年)、特にその序言と「文学と生」と題された第1章である(以下、二〇一〇年に刊行された守中高明と谷昌親による河出文庫版の邦訳を参照している)。

 そこでドゥルーズは、若きアルチュール・ランボーがいまだ驚異の詩人として世に出る前に残した表現原論である「見者の手紙」をもとに、独自の表現哲学を練り上げている。ドゥルーズは言う。文学とは錯乱である。作家とは、錯乱の直中で、通常では見ることのできない現実の外側にある光景を見ることができた者であり、現実の外 側にある諸感覚、響き、香り、味わい等々を感じ取ることができた者である。 錯乱とは、現実の「外」の体験であると同時に、通常では区別されてしまう諸感覚を一つに融合し、総合してくれる手段でもある。だから、作家とは見者であり、同時に聴く人、ただし「見まちがい言いまちがった」人、特異な色彩画家にして特異な音楽家なのだ。作家が記す言葉は意味だけを伝えるものではない。意味と同時に、意味と入り混じった色と香りと音を、より繊細な諸感覚が一つに融け合った意味の塊を、 「詩」として伝えてくれるのだ。

 ドゥルーズは、さらにこうも言ってくれている。錯乱は狂気と区別がつかないし、作家は病者と区別がつかない。錯乱というプロセスが停止したとき、作家は狂気に陥り、病者となる。プロセスの停止に抗い、現実の外側の風景を見続け、現実の外側の風景を感じ続けられた者こそが作家となることができる。自らに与えられた生命の条件をぎりぎりまで生き続けられた者が作家となることができる。 「外」とは抽象的で苛酷な場所であるとともに具体的で豊饒な場所でもある。そういった意味で、作家とは病者ではなく、むしろ医者、「自分自身と世界」に治癒をもたらすことができる医者なのだ。作家は自らの症例を診察し治療すること、つまりは 「臨床」( clinique )を表現としての「批評」( critique )へと転換することができた者なのだ。あるいは、錯乱の直中から健康を創造することができた者なのだ。文学とは錯乱であるとともに、明らかに一つの健康の企てでもある。

 ドゥルーズが最後に残してくれた書物の冒頭に、坂口恭平が生き、表現せざるを得なかった世界が過不足なくあらわされている。坂口は、ドゥルーズとはまったく異なる方法で、まったく同じ表現の領域にたどり着いたのである。本書に「文庫版のための書き下ろし」として付け加えられた第7章「現実創造論」を読んでみれば、坂口が自己に対する「批評と臨床」を実践し、自らの病を健康の企てへと見事に転換させたことがわかる。ランボーが「言葉の錬金術」を実現したとするならば、言葉のみならずさまざまな素材をもとに独自の表現世界を展開している坂口恭平は「物質の錬金術」を実現し、「見者」としての詩人であるとともに、可視の世界と不可視の世界、 人間の世界と森羅万象あらゆるものに宿る精霊の世界を一つに結び合わせるシャマンとしての野生人(「太古の人」)であり、自らにとっての固有の「巣」を人類にとって の普遍の「未来都市」にまで拡張していくことを可能にする総合芸術家(「巣作り職人」)となったのである。

2020年11月26日更新

  • はてなブックマーク

安藤 礼二(あんどう れいじ)

安藤 礼二

1967年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。文芸評論家、多摩美術大学美術学部教授、同大学芸術人類学研究所所員。2002年「神々の闘争―折口信夫論」で群像新人文学賞評論部門優秀作。2004年に刊行された同作品の単行本で2006年芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2009年『光の曼陀羅 日本文学論』で大江健三郎賞、伊藤整文学賞受賞。2015年『折口信夫』で角川財団学芸賞、サントリー学芸賞受賞。他の著書に『大拙』『迷宮と宇宙』など、近刊として『熊楠 生命と霊性』がある。