PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

吹き付けられたしるし

落書きから考える・2

PR誌「ちくま」12月号より岩下朋世さんのエッセイを掲載します。

 引っ掻くの「掻く」から来ているらしい。「書く」あるいは「描く」ということばのことである。マンガの中で、登場人物がマンガを描いている。そんな場面を読んでいるとよく目にするのが「ガリガリ」というオノマトペだ。おそらくは「Gペン」と呼ばれるペン先を使って執筆する、画中のマンガ家が立てているこの力強い音を見ると、描く行為が「掻く」行為に由来するという説が実にもっともなものと思えてくる。
 しかし、「掻く」という動作とは無縁な形で描かれたり、書かれたりするものもある。街を歩きながら、そのところどころにある落書きを見ながら、私はそんなことを思う。
 絵筆をカンバスに走らせるような動きも、「掻く」というイメージからは遠いけれど、それでも筆先とカンバスはじかに触れ合って、そこに痕跡が生じる。しかし、グラフィティと呼ばれる街の落書きの多くは、スプレーで塗料を吹き付けることによって描かれている。だから、手にしたものの先端が壁面に触れて、引っ掻くことは必要ない。
 もっとも、大山エンリコイサムによると、この「グラフィティ」ということばも「引っ掻く」に由来するのだという。大山はその奇妙さに触れながら、『ストリートの美術』(講談社、二〇二〇)の中で、掻くことなしに描かれるこれらの表現を「非接触型描画」と呼んでいる。掻くこと、壁面に接触することを必要としないこのやり方は、壁のデコボコなどを気にせずにひと息に描けるという点で、街のいろいろな場所に、素早く、いくつものしるしをつけていくのに適しているのだという。実に落書きにぴったりな手口なのだ。
 それにしても、そんなやり方で街のそこかしこにのこされた落書きたちは、果たして何のしるしなのだろうか。そう思って目を向けてみても、素人目にはどうにもよく分からない。アルファベットの文字列のようではある。しかし、大胆に崩されていて、そう簡単には読み解けそうもない。というよりも、読むためのものという感じがしてこない。彼らは字であることに飽き足らず、絵として見てもらうのを望んでいるのではなかろうか。そんな気がする。
 とはいえ、それでも出歩く度に探し回っていると、ちょっとは読み解けるようになってくるし、解読できなくても、個体識別はできるようになってくる。なんと書いているかはわからなくても、あそこで見かけたあいつと同じだぞ、と見分けられるくらいにはなるのだ。
 すると、街を歩く楽しみも少しばかり増える。お、お前ここにもいたのか。それにしてもあんたどこにでもいるね。おや、君はあんまり見ない顔だな。うわ、そんな高いところどうやって登ったの。やるねえ。一方的に顔見知りになった彼らに、胸の内で馴れ馴れしく話しかけながら、散策する。そうすると街並みとも段々と親しくなっていける気がする。
 落書きたちは、誰かが人知れずのこした痕跡というよりも、それ自体が、街に生きる何者かなのではないだろうか。だから私は、たとえば猫を探してまわるようにして、彼らを求めて街を歩いてしまうのだ。

PR誌「ちくま」12月号

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