ちくま学芸文庫

平和で豊かな世界を築いていくために

辛島昇著『インド文化入門』解説

カレー博士としても知られるインド研究の世界的権威、故・辛島昇先生による、わかりやすくて奥の深いインド文化の入門書が、このたび学芸文庫のラインナップに加わりました。キーワードは「多様性の中の統一」。インドをフィールドに平和研究に従事されている立教大学の竹中千春先生に、この本の魅力を語っていただきました。

我が家で辛島昇先生と言えば、バブル時代に大ヒットした漫画『美味しんぼ』に登場したカレー学の大先生だ。食いしんぼの夫が見つけてきた本を片手に、大騒ぎしながら二人で料理した覚えがある。漫画原作者の雁屋哲氏が、先生とパートナーの貴子さまの共著『カレーの身の上』『カレー学入門』(いずれも河出書房新社)に感動されたのがきっかけだという。近くは、二〇〇九年に写真家の大村次郷氏と『インド・カレー紀行』(岩波ジュニア新書)を出されて二一世紀版のカレー学にブラッシュアップされたが、本著『インド文化入門』の第一〇章にも、「カレー文化論」が置かれている。ファンとしては、とてもうれしい。

とはいえ、地域研究者が研究対象の土地の風物や食べ物を紹介すること自体は、よくあることだろう。私でさえ、尋ねられれば、四苦八苦しながら説明している。けれども、辛島先生のカレー学は、そんな素人のレベルをはるかに超えた域の高度に学問的なものだ。「食」のあり方、「食」をめぐる人々の姿、そして「食」をめぐる社会そのものに、文化の真髄をとらえようとする人間学と言ってもよい。その内容は、今日から古代までの長い時間を遡り、ヒマラヤ山脈の向こう側からインダス川やガンジス川を通り、砂漠を越え、さらに海を渡って東西の世界へと広がっていく。先生の手によって、悠久のインド文化の総体が、一皿のカレーライスに生き生きと蘇る。

そもそも、インド料理とはスパイスとミルクを主要要素とした料理の総称だと、先生はいう。しかも、つい数十年前までは「インド料理」の本はめずらしく、イギリス人などの外国人が書いた本が目立つほどだった。人々の食す料理は、地方や宗教やカーストなどの異なる、それぞれの家族の中で継承されてきたものだったからだ。スパイスやミルクを共有してはいても、正しい料理とか誤った料理があるわけではなく、ほぼ無限に多様な「食」がインド料理であったと、論じられている。また、食べ物は常に変化してきた。人の移動、農業や交易の変化、技術革新、王朝の栄枯盛衰、イスラームの登場、欧米諸国の進出、大英帝国の支配。二〇世紀には、植民地独立をめざすナショナリズム、国家の樹立、カースト・民族・宗教の運動。最近では、都市化、市場経済の拡大、グローバリゼーションなどの動きが、「インド料理」を形作り、変貌させている。スパイスの香るインド世界のダイナミズムである。

前置きが長くなったが、本書について語ろう。実におもしろい本だ。どんどん頁を繰りたくなる。放送大学の「南アジアの文化を学ぶ」の授業のために書かれた教科書で、各章が一話完結で構成され、どの章から読んでもよい。たいていの教科書は、知識をできるだけ詰め込もうとして堅苦しく説教くさいものだが、この本は違う。ミステリー仕立ての謎解き本のようだ。未知の世界のインドに迷い込んだ読者たちは、まるで「不思議の国のアリス」のように、白うさぎもどきの走って行く先生を追いかけて前に進む。常識がひっくり返り、謎の人物や奇妙な光景が次々と登場する。けれども、なんとか先生に付いて走っていくと、やがてゴールにたどり着き、先生から謎解きを教えてもらう。「そうだったのか」と心底納得するような答えである。わくわくする知の冒険だ。

冒険のテーマは、身近なものを「手がかり」としてインド文化論を探るということだ。読者を導く先生は、疑いなく偉大な歴史家であり、インド研究の大家にほかならない。けれども、先生が真実を追究する姿勢は、ずいぶん従来の学者のイメージとは異なっている。一九世紀以来、ヨーロッパから生まれた近代の歴史学では、公文書館で史料を収集し、図書館で書籍を読破し、それらをもとに過去の出来事を科学的に証明するという方法が正統とされてきた。先生はそうした学問の王道を踏まえつつも、そこに内在する限界を打ち破るために、独自の研究手段を繰り出す。そして、壁を突破するためのヒントやひらめきを、ご家族でインドに滞在された経験とか、友人との会話とか、日常の暮らしの中から引き出してくる。まさに、斬新な「知の技法」をやさしく教えてくれる、理想的な先生だ。

ざっと本書の内容を見てみよう。最初の四つの章は、インドを知るためのキーワードを扱う。第一章は、古代インド叙事詩『ラーマーヤナ』。高校の世界史で『マハーバーラタ』ととともに習うが、それは何かという問いは、なかなかむずかしい。第二章では「言語・民族の問題」、第三章は「カーストとは何か」、第四章は、インドの新聞に載せられた求婚広告を貴子さまと調査された成果をもとに、結婚とバラモン社会を論じる。ここには、身近なものを「手がかり」にする手法が駆使されている。続く四つの章では趣向を変え、ややオーソドックスに、けれども十分に挑戦的に、王朝と宗教や文化の歴史を取り上げる。第五章はインダス文字とその解読、第六章は石造ヒンドゥー寺院壁の刻文研究、第七章はインドとスリランカの仏教史、第八章は、デリー・スルタン朝とイスラームの影響である。インド亜大陸の文化を時間軸で貫く章立てだ。このあたりに関心のある方は、やはり放送大学の教科書として先生が執筆された『南アジアの歴史と文化』(一九九六年)を読んでほしい。

本書の後半では、より個性的なトピックが焦点となる。第九章は「胡椒・陶磁器・馬」として海を渡る交易、第一〇章ではカレーとインド料理、第一一章では、タゴールと岡倉天心以来の日印交流と近代絵画の成立、第一二章では、インドの黒澤明とも言われるサタジット・レイ監督の作品を論じる。そして、いよいよ最後の四つの章だが、いずれも苦境にも負けず戦い続けるインドの人々の勇姿が描き出される。第一三章では、イギリスの軍勢に断固として抵抗した、マイソール王国のティプ・スルタンの生き様を、第一四章では、社会の中で抑圧されてきた女性の戦いを描き出す。ただし、女性蔑視の規範と並んで、女神の力(シャクティ)を讃える女神崇拝の伝統も根強いインド文化の二面性を指摘し、女性首相インディラ・ガンディーや女盗賊プーラン・デヴィにも言及する。いよいよ最後の章では、インドの独立運動とともに現代世界に深い影響を与えたマハートマ・ガンディーを語る。

ざっと見ただけでも、これだけ多様な議論を展開することは、先生以外の誰にもできそうにない。なかでも、ご自身の長年の研究をまとめた章は圧巻だ。第六章では、中国史と異なり、「史書なき歴史」といわれるインド史の限界に挑む試みとして、岩や石柱や寺院の壁などに刻まれた文字を発見し解読するという研究方法を紹介してくれる。アフガニスタンからガンジス川流域、デカン高原に及ぶ「アショーカ王の碑文」、さらに南インドのチョーラ朝のタミル語刻文を取上げる。王の名、農村の様子、課税の仕方、家畜や品物や食事などを伝える古い刻文の向こうに、過去のインド社会が透けて見えてくる。先生は、歴史研究のシャーロック・ホームズのようだ。「海のシルクロード」を語る第九章も、辛島先生の研究を凝縮したものだ。中国とギリシア・ローマをつないだユーラシア大陸の「陸のシルクロード」とともに、インド亜大陸やスリランカを真ん中に挟んで、東アジアと東南アジアから中東・北アフリカ、そして地中海を結ぶ「海のシルクロード」が活発な交易ルートとして利用されていた。ローマの人々は南アジアの産する胡椒や中国の陶磁器を求め、インドの人々は運搬や戦争の道具としてアラビアの馬を求めた。古代文書に残された記述をたどり、地図に書かれた地名や行路を説明する先生の文章を読んでいるうちに、青い海を走るダウ船に乗って海風に吹かれているような気がしてくる。鮮やかな写真を見たい方は、大村次郷氏と先生の共著『海のシルクロード─中国・泉州からイスタンブールまで』(集英社、二〇〇〇年)を手にとってほしい。

私自身は法学部で政治学を学び、現代インドの政治を研究してきたので、残念ながら辛島先生の授業や演習に出席したことはなかった。しかし、折に触れて、先生に温かい力をいただいてきたように思う。最後に先生にお会いしたのは、東京大学のキャンパスに近い丸ノ内線の本郷三丁目駅である。短い間だったが、電車の中で先生とお話しできたのは、まさに僥倖だった。お元気ですかと伺ったら、体調が良くなったので、しばらくしたらインドに行きたいと思います、というお答えが返ってきた。「海辺で陶器の破片を拾うんです。壺とかお茶碗とか、中国の古い器のかけらが見つかるんですよ」、と笑顔で話してくださった。二一世紀のインド太平洋構想とか日印の安全保障協力といった忙しない事柄を追いかけている自分を振り返り、先生の言葉に心底感動したことを覚えている。ぜひとも先生をお招きしてインド洋のお話を伺おうと思っていた矢先、突然の訃報を受け取った。悲しい知らせだった。

さて、一九九一年、つまりインドが社会主義国家であった最後の年に奈良康明先生と共著で出された『インドの顔』(生活の世界歴史5、河出書房新社)でも、本書と同じように、宗教や民族やカーストや女性や都市と農村の生活を書かれた後、最後に「改革の思想」という章を置いたが、そのときの英雄はアンベードカルだった。不可触民とも呼ばれて厳しい差別を受けてきた人々の解放を呼びかけ、人間の平等を説く仏教への改宗を呼びかけた指導者である。対照的に、本書が出版された二〇〇〇年前後のインドは、グローバル市場経済に参入し、経済成長と大国化をめざす国となり、しかも時の政権は核実験を行い、カシミールでの武力紛争に勝利したヒンドゥー至上主義勢力の掌中にあった。『ラーマーヤナ』の主人公である理想の王子ラーマの名を叫ぶ人々が、大規模な反イスラーム暴動を引き起こした時期である。だからこそ、第一章で『ラーマーヤナ』が取り上げられ、一元化を拒む豊かな多様性こそがこの物語の特質だと、幾重にも説明される。「時代、地方、そしてそれを必要とした人々の立場によって、さまざまな姿を示している」のがラーマ物語であり、古代史家ロミラ・ターパル教授の言葉を引いて、それは「インド人全体で行ってきた「文化表現」なのである」、という。そして最終章では、多宗教の共存、とくにイスラームの人々との共存を訴え、非暴力主義を説いたマハートマ・ガンディーを取り上げて、本書を締めくくる。先生のインド文化論は、現実の問題に翻弄されながらも未来への出口を探る、膨大な数のインドの人々への愛と尊敬に貫かれながら、常に変化してきたのだと思う。

そして、この本が出版されてから、もう二〇年が経った。未だに何億もの貧しい人口を抱え、中国に次ぐアジアの大国として注目されるようになり、インド系の人々がグローバルに活躍する時代を迎えている。と同時に、現在のインドは、新型コロナ・ウィルス感染症の拡大、経済的な落ち込み、民主主義の屈折、中国との国境紛争など、さまざまな困難に見舞われている。だからこそ、先生の言葉は、改めて心に沁み込んでくる。

多くの民族が来住し、異なった文化がぶつかり合いながら、その中から「インド」文化という一つの文化を作り上げた南アジアは、いかにすれば異なった民族がこの一つの地球で共存していけるかを、われわれに教えてくれるものと期待される。そこにこそ、われわれが南アジアの文化を学ぶことの意味がある。

本を読み、新たな知識を学ぶ目的は、蒙を啓いて自らの殻を破り、さまざまな人々との出会いを楽しみ、平和で豊かな世界を築いていくためではないか。かつてブッダの教えを生み出したインドは、現代を生きる私たちにも創造的な知恵や温かい勇気を発信し続けているのではないか。たまたまインドを研究したご縁で、辛島先生に出会い、尊い教えをいただいた幸いを心から感謝しつつ、筆を置きたい。