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貿易問題の本質をつかむ

アメリカのトランプ前大統領によってかきまわされた世界各国の通商政策。バイデン新大統領になって一安心となるかといえばさにあらず。貿易は参加する各者の利害がぶつかり合う最前線であり、歴史を振り返ってみれば、貿易はつねに闘いの場であったからです。貿易とはいったい何なのか!? 12月刊『貿易の世界史――大航海時代から「一帯一路」まで』より「はじめに 貿易の主役は誰だろう」を公開します。

はじめに 貿易の主役は誰だろう

貿易は双方に利益をもたらすものなのか?
 貿易とは何か? 経済学のテキストには、貿易はお互いの国に利益をもたらすから行われ、人類を至福の世界に導く自然現象でもあるかのように説明するものもある。貿易は相互に利益をもたらすものなのか。そうではない。当事者の利益が相反するからこそ、イギリスのEU離脱やアメリカのTPP不参加がおこるのだ。
 自由貿易がよくて保護貿易は悪いという言説があるがそれも違う。自国の産業を守るために、歴史的に保護政策は行われてきたからだ。ただしトランプ政権時代のアメリカの政策は第4章で詳述するように保護主義でも何でもない。
 トランプは、2017年1月、大統領就任後の記者会見で、アメリカは不均衡貿易で毎年、数千億ドルを失っているから不均衡な貿易を是正する、そして雇用を確保するため、海外移転している企業の製品に高関税をかけると述べ、企業にアメリカへの回帰を呼び掛けた。実際、1970年から貿易赤字国に転落したアメリカは、巨額の貿易赤字を記録しつづけている。トランプ大統領は、貿易赤字の原因は貿易黒字国の責任であるとして、貿易黒字国を激しく糾弾した。
 同大統領は、2018年3月、1962年の通商拡大法232条に基づいて、メキシコとカナダを除く全ての国を対象にして鉄鋼に25%、アルミニウムに10%の輸入関税を課すことを決定した。これに対して中国とEUは報復関税措置を発動した。以降、中国とアメリカとの間では米中貿易戦争とも言うべき激しい関税引上げ競争が展開されている。しかし米中の経済は相互依存関係を深めており、アメリカ経済は中国の労働市場や販売市場を無視しては成り立たない。米中関係については第4章で触れるが、通信技術開発では中国が優勢を誇っている。こうした状況のなか、トランプ大統領は中国に対して経済戦争を宣言した。
 すなわち、トランプ大統領は2019年に成立した国防権限法に基づき、政府調達から中国企業を排除する規制の第一段階として、2019年8月に米政府機関に対し、中国の通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)、中興通訊(ZTE)、海能達通信(ハイテラ)、杭州海康威視数字技術(ハイクビジョン)、浙江大華技術(ダーファ・テクノロジー)五社との直接取引を禁止した。そして第二段階となる2020年8月からは適用範囲を広げ、中国企業五社の製品やサービスを使う企業と、米政府との取引を禁止する規則を施行した。こうした措置は、中国企業に部品を供給している日本や米国の企業に多大な影響を及ぼすだろう。
 アメリカ企業に限らず、世界の企業は1970年代以降、急激な海外展開を遂げており、国内で生産し国外に輸出するという古典的パターンから脱却している。つまり米国企業のグローバルな事業展開の帰結として生まれたのが米国の貿易赤字なのだ。だから米国企業を海外から引き戻すというのは、大統領が誰であれ無理な話であり、選挙目当てのプロパガンダでしかない。
 実際、米国の製造業部門労働人口は、1991年の1780万人から2009年には1200万人にまで激減している。製造業部門の海外展開に歯止めが利かない状態だ。

貿易の主役は多国籍企業
 2016年段階で、資産総額、または純収益が2500万ドル以上の米国多国籍企業(U. S. Multinational Enterprises)の子会社3万4881社が、全世界289か国を舞台にしてあらゆる産業部門で事業を展開している。米国の多国籍企業とその子会社が世界で雇用している従業員数は約1700万人であり、中国では約210万人、メキシコでは約160万人、インドでは約140万人、カナダでは約130万人を雇用している。
 こうしたなか安倍首相(当時)は、2017年2月10日、トランプ大統領との首脳会談直前、年金資産も活用して数兆円もの投資をして、米国で70万人の雇用を創出する「日米成長雇用イニシアチブ」を公表した。また米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)は米国内の工場に約10億ドル(約1140億円)を投資し、千人超の雇用を創出する計画を発表した。GMだけではなく日系自動車メーカーも米国における雇用創出を一斉にアピールしている。
 しかしGMやフォード・モーターズ・カンパニー(FMC)、さらにトヨタ自動車がトランプ大統領の要求を全面的に受け入れて生産基地を海外から米国へ全面的に移転する予兆は見られない。これら多国籍企業は全世界で激しい市場獲得競争の渦中におかれ、一国内に生産基地を構え、一国内の市場をターゲットにして活動を展開しているのではないのだ。トランプ大統領は、米国はメキシコと不均衡貿易で毎年、数千億ドルを失っていると批判してたが、メキシコから米国への輸出の主導権を握っているのは、こうした米国の多国籍企業に他ならない。
 2015年段階におけるGMの全雇用者数は21万5000人であり、この内11万8700人がメキシコを始め海外の工場で雇用されている。海外雇用比率は55%に達する。FMCの場合、全雇用者数は19万9000人であり、この内9万6000人が海外の工場で雇用されており、海外雇用比率は48%に達する。また海外資産保有額が世界第2位のトヨタ自動車の場合、全雇用者数は34万8877人であり、この内14万8944人が海外の工場で雇用されており、海外雇用比率は43%に達する。
 世界の大手自動車メーカーは米国を最重要市場と位置付け、関税メリットと安価な労働力を求めてメキシコに生産拠点をシフトさせている。2015年にメキシコから輸出された自動車261万台の内、75%は米国向けである。帝国データバンクによる『メキシコ進出企業実態調査』(2018年)によれば、メキシコへ進出した日系企業について以下のように述べている。「メキシコに進出している日本企業は、2018年6月時点で715社であり、業種別に見て最も多かったのは「製造業」の459社(構成比64.2%)で、全体の約三分の二を占めた。2位は「卸売業」(135社、同18.9%)となった。業種細分類別に見ると、最も多かったのは「自動車部分品・付属品製造業」の43社(同6.0%)であり、「自動車駆動・操縦・制動装置製造業」(30社、同4.2%)、事業持株会社を含む「投資業」(27社、同3.8%)、総合商社など「各種商品卸売業」(20社、同2.8%)と続いた。この他、自動車用外板部品
の製造などの「金属プレス製品製造業」(16社、同2.2%)や、「鉄鋼卸売業」(14社、同2.0%)、「自動車用内燃機関製造業」(11社、同1.5%)などの自動車製造に関連した業種が上位を占めた。こうした企業の中には、現地生産を行う日系完成車メーカー向けの他、欧米系の大手完成車メーカーに部品供給などを行っている企業も見られ、メキシコを部品供給や最終組み立てなど、北中米地域の「製造拠点」と位置付けて進出している企業が多く見られた」
 国家が企業のグローバルな事業展開に歯止めをかけて自国民の安定した雇用を維持し、産業を守るための通商政策であれば、それは正当な通商政策であり、これまでのアメリカの企業最優先の通商政策とは真逆の政策である。だがトランプ大統領は、富裕層を更に富裕化させる大幅減税政策をとる一方、著しい所得格差解消や最低賃金の引上げ、更に社会保障制度の整備は何もしていない。同大統領の狙いは、大企業や富裕層の利益を擁護することに他ならない。
 実際、同大統領は、2017年12月、大幅な法人税軽減を目的とする税制改革法に署名した。同法は2025年までの時限立法であるが、法人税は従来の35%から21%に引き下げられた。多国籍企業が外国から受け取る受取配当は全額が益金不算入とされ、無税となった。個人所得の最高税率も引き下げられ、相続税(遺産税)課税最低限は2倍に引上げられた。また遺産税、相続税に対する基礎控除額が2025年まで倍増(約1200万ドル)することになった。この措置によって課税対象者が大幅に減少した。
 法人や富裕層、なかでも海外で事業展開する多国籍企業は、税の大幅軽減措置を大歓迎した。だが大幅減税により、税収は大幅に減り、2019年10月には米連邦政府の債務残高は23兆ドル(約2500兆円)の節目を超え、過去最高の23兆84億1000万ドルに達した。アメリカのGDP(国内総生産)は2019年段階で約21兆4394億ドル、債務残高はGDPの約112%に達する。

国際貿易の構造を理解する
 繰り返すが、国際貿易はお互いの国に利益をもたらすから行われるのではない。貿易は多国籍企業にとって利潤追求の道具であり、その道具を使って利益を得るのは国民ではなく私企業なのだ。まるで毛細血管のように全世界に張り巡らされている貿易・生産ネットワークは、富を全世界に平等に行き渡らせる役割を担っているのではなく、巨大企業の手中に富を集積・集中する役割を果たしている。だからこそ国際NGOオックスファム(OXFAM)の2016年度報告にあるように、世界人口の1%にあたる富裕層が持つ富は、2016年には残りの人口の99%が持つ富の合計を上回るという、異常の中の異常な事態が生じているのだ。
 そもそも現在の貿易の当事者は、国でも、あなたでもなく、多国籍企業なのだ。貿易によって、異国の文化に触れることができるなど、われわれ消費者にもプラスはあるかも知れない。だが貿易の恩恵は、基本的には貿易によって富を得ようとするものに与えられる。このようにして現在の世界経済ができあがってしまったのだ。本書では歴史を振り返り、近代社会が形成されるなかで貿易が果たした役割について考察し、貿易問題の本質を明らかにしたい。それには先ず、散らばっていた世界を「ひとつ」にする契機となった大航海時代までさかのぼらなければならない。

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