ちくま新書

思想を学ぶ意味を考える

これまで人類は何を考えてきたのか。ギリシア・ローマから、インド、中国、日本の思想、さらにはポストモダンや現代正義論にいたるまで、比較思想史の観点から古今東西の思想を一望する快著。ちくま新書1月刊『世界がわかる比較思想史入門』より「はじめに」を公開します。

異なる文化との出会い
「お天道さまがみている」「いずれ罰があたるよ」「そりゃ自業自得だ」「先輩らしく振る舞わないと」「風情があるね」「もっと理性的になろうよ」「損得のバランスを考えよう」といったセリフをどこかで聞いたことがないだろうか。これらはそれぞれ異なる文化・思想を反映したものであるが、同一人物でもシチュエーションに応じて、こうしたさまざまな表現を使いわける。
 人間の思考・価値観・世界観というのは多面構造的であって、誰かを――それが他人であっても自分であっても――理解するにあたっては、その振る舞いや考え方を形作っている文化的・思想的背景をきちんと捉える必要がある。そして、それはより良いコミュニケーションの可能性でもある。たとえ互いに完全には同意し合えなくとも、相手の振る舞いにはなんらかの意味・理由があるということを理解することで、互いに互いの人格を等しいものとして尊重する道が拓けてゆく。
 異文化コミュニケーションの重要性が唱えられてずいぶん久しいが、そもそもその前提としての異文化理解とはどのようなことなのか? それは単に、自分とは異なる文化の「情報」を網羅的に知ることではないだろう。本やネットで調べれば、それぞれの国がどの点で違うのかなどはすぐに分かる。そうではなく、異文化理解とは、それぞれの文化の背後にある構造や歴史を踏まえつつ、自身のそれとはどのように同じでありどのように異なるのかを比較し、「何か」を摑むことにあるのではないだろうか。それは決して、単なる表向きの比較に終始するべきものではない。
 たとえば、日本においては許されないとされる人物が、海外では「え? そんなに怒られるようなもの?」とみなされるケースがあるだろう。こうしたことから、日本人はこまかいところにうるさく、集団的規律と正義を重んじる国民性と思われがちかもしれないが、しかし、だからといって諸外国にはモラルや正義がまったく存在しないわけではない。逆に、海外で許されないことが日本では「まあ、いいじゃないの」となあなあで済まされることもある。もちろん、だからといって日本にはモラルもへったくれもない、ということにはならない。
「許せない!」「これをなすべきだ!」「世界はこうあるべきだ!」といった正義感・義務感、あるいは世界観というものは、およそどの文化にもあるもので、その違いは、同じ行為・事柄であっても、それぞれのフレームのもとでは異なる意義をもつという点に由来する。
 とするならば、異文化を理解するということは、単に「日本では許される(許されない)が、他の文化圏では許されない(許される)」といった「情報」を得ることではなく、そうした意識や規範の差異がどのようにそう生じたのかといった「文化に関する分析的理解」であるべきであろう。それによってはじめて、我々は「他者がそれをなぜそのように考えるのか」という理由を知り、それに全面的に賛同しないまでも「ああ、そういうことか。なんとなく分かるよ」といった寛容的理解が可能となる。そして、そこから、いくぶんかの譲歩や、あるいは、異文化受容や異文化コミュニケーションの契機が生じることだろう。
 分析的理解というとなんだか重苦しい響きがあるが、しかしそこまで難しく考える必要はない。それは、ある文化の歴史を「思想」という観点から捉えることで(いわゆる「思想史」のもと)、その文化特有の思考形態・価値認識をタイプ化してゆく作業であり、それは、高校生あたりで学ぶ歴史や倫理のおさらいのなかでもできることなのである(本書ではさらにそれを少しばかり掘り下げてあるが)。

文化の背後にある思想
 まずは基本的な言葉から確認しておこう。ここまで「異文化」という言葉を使ってきたが、そもそも「文化」とは何だろうか。一般に「文化(culture)」とは、人間の活動のもと社会的にできあがった、そこでの衣食住、技術、思想、政治、学問、科学などの在り方を規定する生活様式のことだとされる。その語源は、ラテン語のcultura(耕作)であるが、古代ローマの哲学者キケロが「魂の耕作としての哲学」などと表現しているように、「洗練された学識」「過去の野蛮な状態を乗り超えて成立した規範や考え方」というものが「文化」の意味となった。こうした耕作された魂の状態ともいえる教養は、ある社会のなかで誰かが誰かに伝えるという形式があって(長老→若者、教師→生徒、親世代→子世代)はじめて成立するものである。
 つまり、継続的な歴史をもった「教え」「考え方」こそが――単なる受容ではなく批判的継承や反発もあるにせよ――それぞれの文化の特徴を端的に示しているわけで、ゆえに、文化理解にあたっては思想的特徴と同時に、その思想の歴史も同様に踏まえておく必要がある。
 ある文化において人々に継続的に共有されている「思想」とは、世界観、社会観、人生観、あるいは物事の把握の仕方に関し、反省的思惟をもってできあがったものである。そこには宗教や哲学はもちろんのこと、それ以外の各種学説や科学理論、はたまた文学などにみられるところの、ある文化特有の「信念」「ポリシー」「価値」「物事の捉え方」などが含まれる。日本の風土においては、島国で暮らしていた日本人たちがあれこれやるなかで習慣が生じ、何が当たり前で何が間違っているか、そして「何をすべきか」といった規範的価値観がそこで醸成されるに至っているし、海外でも同様にその地域独自の思想が成立してきた。
 ここで一つ言っておきたいのは、思想史(history of human thought, history of ideas)において、「宗教(religion)」と「哲学(philosophy)」とはある程度区別される、という点である。宗教とは、世俗から分離した超越的もしくは絶対的存在や法則( 理[ことわり])を措定し、それに関する単なる信念だけではなく信仰に基づいた在り方に関する教え、もしくはその在り方から派生した行事・学説・ライフスタイルなどを包摂した価値観・世界観のことである。他方、哲学はそうした宗教とは独立的に特定のトピックを取り扱う分析的思考法であり、それは対象となる物事について問いつつ、問いのなかからその理解の仕方がどのようになっているのかを論じたり、提示したりする営みもしくは思想分野である(「科学とは何ぞや」と問う科学哲学が宗教とは異なるということは、おそらく誰もが理解しやすいであろう)。
 基本的には、哲学≠宗教であるが、「どう生きるべきか」という問題についてはある種の哲学と宗教的概念とが組み合わさることもある。ただし、結論として宗教を受容することはあっても、原理として宗教的教義をそのまま議論の前提とすることを哲学はしない(議論の前提として受け入れるべきかどうかを吟味することはある)。

思想を比較する意義
 いずれにせよ、グローバル化した現代において、我々は異文化の人々と接する機会も増えている。それはつまり、自分とは異なる思想(宗教や哲学、あるいはその文化特有の価値観)をもった人たちと交流するということであるが、ときにどうしても理解しがたい相手の振る舞いに直面したり、逆に、自分にとっての当たり前がなかなか相手に理解してもらえなかったりもする。そんなとき、我々はなんとか相手を理解するためになんらかの枠組み(フレーム)を使ったりする。たとえば、「日本人は集団心理にながされやすい」とか「アメリカ人は冷淡な個人主義だ」とか「イギリス人は古いものを好む懐古主義だ」といったステレオタイプは、それっぽいことをする異文化の人をカテゴライズして説明するのにはとても便利である。しかし、それは便利さと同時に危うさも抱えている。異なる文化をもつ人々の行動やその理由について、「こうに決まっている。彼らはそういう人間なんだから」という紋切り型の理解は、その人々の文化的多面性を見過ごすことにもなりかねない。キリスト教文化圏だからといってそれ以外の価値観をもっていないわけではないだろうし、日本人だからといって常に神道的な「穢れ」や「禊(みそぎ)」の意識で生きているわけではなく、西洋的な人権思想や、ローマ法的な損害賠償の考えで動いたりもする。そう、我々人間の精神性、そして生活スタイルは多面的かつ複合的であるのだ。ゆえに、相互に有意義なコミュニケ―ションをしてゆくためには、単調・単純な認識フレームよりは、多種多様で柔軟性を備えたフレームをもって、「あの人はなぜそう考えるのか?」「あの人はなぜあんな言い方をするのか?」ということを丁寧に問いかけ、いろんな角度から理解しようとする方が望ましい。古今東西のさまざまな文化や思想を比較しながら学ぶ意義はここにある。

自分自身を理解する
 しかし、より重要なのは、そうした学びやそこから得られる有用なフレームは、まずは自分自身を理解することに役に立つということである。「自分のことは自分が一番分かっている」と思っている人は多いが、自分が何気なく発する言葉、自分が考えるライフプラン、自分にとって許せることや許せないことなどは、普段意識されていない自身の多様な文化的バックグラウンドに基づいている(だからこそ、すぐさまそれを「日本人か、アメリカ人か」というような単純なナショナリティに還元しようとすることは早計であるのだが)。自分自身を含め、物事を理解し何かをしようとする際は、文化的バックグラウンドとその特性、長所をうまく捉えるための幅広い教養と、それをうまく使いこなす素養と訓練が必要となる。
 つまり、ある人間をきちんと――それが自身であろうが他者であろうが――理解するためには、その全体像をクリアにしてゆくための多角的アプローチとそれを可能とする思想的パースペクティヴが求められる。そして、それらを学ぶなかで、自分自身を問い直し、自身のコアな在り方を発見し、自分の人生を自覚的に生きてゆこうとする契機も訪れるかもしれない。宗教や哲学といった「思想」について学ぶということは、それに囚われるためではなく、その構造と限界を知ること、そしてそれを踏まえた上で、自身が何をもって生きるべきかという問いとその答えの手がかりを可能な限り得ようとすることでもある。
 とまあ、前置きが長くなったが、言いたいことは、自文化や異文化を知り、古今東西の思想などを学ぶことは、それまで見えていた「世界」や「他者」や「自己」の見え方が――解像度が上がるかのように――クリアとなり、そしてそれが豊かな色合いをもったものであることを知ることにも繫がる、ということである。「自分を変えるんだ!」とか「世界を変えなきゃ!」といった理想や使命感は素晴らしいかもしれないが、まずは、自分や世界について、そこにある色鮮やかさや豊かさをきちんと知っておくのもよいだろう。それでは、いよいよ思想の世界にダイブし、そのなかで各種思想の共通点と差異を意識しつつ、それが現代の価値観や考え方にどのようにつながっているのかをみてゆこう。

 

2021年1月13日追記

著者による『世界がわかる比較思想史入門』解説動画が公開されました。それぞれ「第2章 ユダヤ教・キリスト教・イスラーム」の「ユダヤ教」と「キリスト教」についての解説です。こちらも、ぜひご覧くださいませ。