筑摩選書

絶望とひたすらに向き合うために

現代において『往生要集』から何を学ぶか

平安時代中期に、天台宗僧侶・源信によって著された『往生要集』。仏教諸経典の引用を再編し浄土往生の手引書として読まれた本書を、現代に読む意義とは? 悲惨と絶望に満ちた人生を前提として生きる、そのことに真実を見いだすことをひたすらに求める『往生要集』の世界観をやわらかに案内する阿満利麿著『『往生要集』入門』「はじめに」を公開します。

『往生要集』は九八五年に成立した。この古典を、千年以上の年月を経た今日、あらためてとりあげる理由はどこにあるのか。
 一つは、その深い人間洞察に惹かれるからだ。著者の源信が、「地獄」と「極楽」という、今の人間にはおどろおどろしく感じられる対比を使って明らかにしようとしたのは、人間の心底を流れる、真実を求める強い願いを浮き彫りにするためにほかならない。その願いは、今の私たちには縁遠いように思われるが、『往生要集』の文言にふれると、そうした願いが私たちの心の奥深くにまだ生きていることに気づくのである。
 思えば、現代では、人の生涯は、誕生から死までのたかだか百年に限られていて、しかも、死ねば「無」になるという。また、現実に生じる様々な問題や不条理を、自分が生きている時間のなかで解決、納得しようともがく。だが、人生はそれほど簡単なものであろうか。私たちは、自分の人生のなかで生じた問題のほとんどを未解決のままにして、生涯を終わるのではないか。解決・納得したらしく見えるのも、たんに忘却であることがほとんどではないか。
 それに比べると、源信は、現実の生をはるかな過去から位置づける、長大な時間軸を採用している。そもそも、人間として生まれてきたというのも、はじめてのことではないのだ。今の人生の前に、どれだけの生をくり返していることか、と源信は嘆息している。
 はたまた、その生存する空間についても、源信は、現代の宇宙論の常識をはるかに超えた無限の広がりにおいて考えている。それは、神話的時間であり神話的空間ということになるのであろうが、源信の魅力は、その神話を実際に生きて見せたということであろう。いや、その神話を使って、人間の悲惨と絶望を超える道を見出した、ということである。
 二つは、『往生要集』が、互いの死を互いに看取りあうことを目的とする、信仰を同じくするグループのための「指南書」であった、という事実にある(井上光貞『新訂日本浄土教成立史の研究』、石田瑞麿『日本思想大系6 源信』〔解説〕等)。そのグループは、「二十五三昧会(にじゅうごさんまいえ)」という、比叡山の僧侶たち有志の「念仏結社」であった。『往生要集』は、彼らの運動を支え、方向を与えるために使用されたという。つまり、たんなる仏教思想の解説書ではなく、救済の具体的実践を前提にしている、あるいは、そうした実践を組み込んだ実用書だということである。
 私は、この指摘は重いと思う。なぜならば、現代は、血縁・地縁をはじめ、さまざまな人間関係の枠組みが崩壊、無力化してきている時代であり、人は文字通り、孤独の真っただなかで、死んでゆかねばならない。それだけに、その悲しみを少しでも和らげる工夫が求められるのだが、『往生要集』には、その手掛かりがいたるところに見いだせる。とするならば、無関心ではおられないではないか。

 著者の源信について、簡単に紹介しておく。源信は、今の奈良県の当麻(たいま)で生まれた(九四二年)。母は、浄土教の信者であったという。彼の三人の姉妹も出家している。彼が比叡山延暦寺で、いつ出家したのか、その時期は不明である。当時の比叡山延暦寺は、天台宗の総本山として、また、当時の政治体制を支える柱として、英才が集まる最高の学府でもあった。その延暦寺を率いる良源(りょうげん)に、源信は師事した。出家後の源信は、弱年ではあったが、その学才の評判はきわめて高かった、という。
 鴨長明の『発心集』に、源信が空也(くうや)上人に会って教えを請うたという話が載せられている。源信は、空也に問う。「極楽を願ふ心深く侍り。往生は遂げ侍りなむや」、と。空也は、その返答のなかで、「知恵・行徳なくとも、穢土(えど)をいとひ、浄土を願ふ志(こころざし)深くは、などか往生を遂げざらん」といった。源信は、これを聞いて、感涙にむせび、空也を合掌して礼拝したという。
 のちに、『往生要集』を書くときに、「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」をそのはじめに記したのも、この空也の教えによると、鴨長明は記している(『新潮古典集成 方丈記 発心集』、二九五~二九六頁)。
 当時、空也はすでに「市聖(いちのひじり)」、「阿弥陀聖」とよばれていた。「聖(ひじり)」は、国家権力によって造られ、維持されている仏教教団に属するよりも、自己の求道心を優先させて、隠遯、漂泊のなかで、自ら修行に励み、また、人々に仏教を勧める、一群の出家者たちのことである。
 良源は、比叡山における学問の振興に力を注ぎ、源信もそのなかで仏教学の知見を広め、学僧としての名声もあがっていった。源信が僧侶としての階位を順調に上ってゆくかに見えたとき、ある出来事が生じた。それは、母からの忠告である。その様子は、『今昔物語』に詳しい。
 それによると、あるとき、朝廷の行事に召し出されて、布施の品をもらい、うれしさのあまり、母に送ったところ、母からつぎのような手紙が届いた。「あなたは立派な学者におなりになったらしいが、それはあなたの本意なのか。あなたは、わたしにとってはただ一人の男の子である。その子を元服もさせずに、出家させたのは、名僧となることを望んでのことではない。多武峰(とうのみね)の聖(ひじり)のように、名利(みょうり)を否定して、ひたすら仏道を歩む僧になり、私の後世をも救ってもらいたい、と願ってのことだ。私が生きているうちに、あなたがそのような聖になっているのを見届けて死にたいのだ」、と。
 この手紙を読んで、源信は涙を流して、「よくぞいってくれた。これからは、教えのとおりに聖をめざします」と誓った。その後六年間、山に籠り修行に励んだが、あるとき、母のことが気になり、母のもとを訪ねたところ、おりしも臨終であった。母は、念仏する力もなく、源信が助けて一緒に念仏するなかで、亡くなっていった。『今昔物語』は、「母は子のため、子は母のために、たがいに善知識となった」と結んでいる(『今昔物語集』「本朝部上」、岩波文庫、二九〇頁)。「善知識」は仏教の言葉で、教えに導いてくれる友人や指導者をいう。『往生要集』の執筆が完成したのは、九八五年春であった。ほぼ半年で脱稿している。この間、師匠の良源が死亡している。この年にはまた、さきにふれた「二十五三昧会」が発足している。
 源信は、晩年、生前に修めた行を記録して仏前に奉呈したというが、それによると、念仏は二十倶胝(ぐてい)遍(「倶胝」は梵語で、数の単位。十の七乗、あるいは一千万という)、読んだ大乗経典は五万五千五百巻、『法華経』八千巻、『阿弥陀経』一万巻、『般若経』三千余巻。「大呪(だいじゅ)」(文言の長い秘密の言葉)百万反、「尊勝(そんしょう)呪」三十万反等、となっている。この奉呈の四年後、源信は、一〇一七年に七六歳で亡くなった(『日本の名著4源信』)。
 ちなみに、『往生要集』は、中国(当時は宋朝)に贈られて現地でも評判になったという。その事情が、のちに書き加えられて伝わり『往生要集』の巻末に付録となっている。

 人生の真実の意味を見出すためには、それなりの工夫が必要であろう。くり返すが、源信の場合、それが「地獄」と「極楽」の対比(原文でいえば、「厭離穢土」「欣求浄土」)である。この世を「穢土」(欲望で穢<けが>された世界)とみなし、ひたすら「浄土」(阿弥陀仏の国)を希(こいねが)う。このような思考の図式を採用することによって、人生の真実の意味を見出そうと試みたのである。
 現代の私たちは、源信がつくりだした強固な思想的枠組みに匹敵する枠組みを、はたして用意しているのであろうか。本書を世に送る所以である。

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