PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

自分なりの落書きを

落書きから考える・3

PR誌「ちくま」1月号より岩下朋世さんのエッセイを掲載します。

 落書きがマンガの源流であり、マンガは落書きの源流でもあるのだと、鶴見俊輔は書いていた。『漫画の戦後思想』の序論でのことだ。一九七三年に文藝春秋から書き下ろしで刊行されたこの本を私が読んだのはたしか二〇〇〇年前後、熊本に暮らしていた大学生の頃だが、落書きとマンガを結びつけるその議論に触れて、ぜんぜんピンとこないなぁ、と思ったものだった。どうにも浅はかなことだ。鶴見ではなく、当時の私がである。
 それにしても、なぜ私はそんなふうに思ったのだろうか。今になって考えてみると、これは鶴見と私が「マンガとは何か」という問いに対して違う答えを持っていたということに尽きる。もっとも、その頃の私がこの問いにハッキリした考えをもっていたかといえばそんなことはない。しかし、当時の私が抱いていたマンガへの関心は、コマ割りであったり、吹き出しのなかのことばであったりといった道具立てがそれぞれに力を合わせて物語を展開していくそのメカニズム、要するにマンガ表現の仕組みへと向けられていたのだった。そして、その時に念頭にあったのは、コマ割りや吹き出しを備えたタイプのいわゆる「ストーリーマンガ」で、たとえば一コマものの諷刺マンガなどは、ほとんど眼中になかった。
 一方で、鶴見の視界には、彼が「物語漫画」と呼ぶところのストーリーマンガだけでなく、諷刺を主眼とする一コマもののマンガも捉えられていた。これは鶴見の世代からすれば当たり前のことだ。しかし、コマ割りや吹き出しを用いて物語を綴る、それこそがマンガだと窮屈にも考えていた身からすると、そっちとこっちとは一緒くたにはできない。だからこそ初読時の私には納得しがたかったのだろう。
 けれども、マンガ表現の道具立てのなかからキャラクターという存在を取り出して考えてみると、その源流に落書きがあり、同時に落書きの源流でもあるというのは、鶴見の考えとはズレるかもしれないが、腑に落ちるところがある。キャラクターというのは、なにげなく紙の上に線を引いていくなかでふとかたちを結んで生まれてしまう。そうして生まれたマンガを読んだ誰かが、ちょっとした暇つぶしだったり、やむにやまれぬ愛着を形にするためであったり、いろいろな理由でキャラクターの姿を描きはじめるのもお馴染みの光景である。
 だから落書きすることは、キャラクターと親しく関係を結ぶことでもあるのだろうし、キャラクターを介して他の誰かと関係を結ぶきっかけでもある。マンガの楽しさは、物語を読むことだけでなく、あるいはそれ以上に、そうしたコミュニケーションにもあるのかもしれない。鶴見はマンガと落書きについて書いた文章を「私としては、自分の好きな漫画に模して、自分なりのらくがきを書く」と締めくくっていた。落書きを通して、自分の好きなマンガやキャラクターの自在な読みを披露してみせる。鶴見とはちがう形かもしれないが、多くのひとがそのようにしてマンガを楽しんでいる。そのことを私たちはよく知っている。

PR誌「ちくま」1月号

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