ちくま学芸文庫

国民主義の極致としてのナチズム
ジョージ・L・モッセ著『大衆の国民化 ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化』日本語版への序文より

ジョージ・L・モッセ著『大衆の国民化』は、ナチズムが大衆操作ではなく大衆の合意形成運動のなかで生まれたとして、ファシズム研究の新局面を拓いた1冊です。本書では、ナチズムを、大衆の政治参加に基づく国民主義(ナショナリズム)の極致と捉えて、フランス革命からナチズムに至るまでのシンボルや政治的祭祀の発展をたどり、ドイツにおける国民主義の歴史を読み解いていきます。聖火や整列行進、国民的記念碑や建築などが大衆の政治参加にどのような役割を果たしたか、また体操家や合唱団や教会、さらには労働者組織までがナチズムの政治的祭祀に統合されていく様子を赤裸々に描き出した本書。その著者による「日本語版への序文」を公開します。(翻訳:佐藤卓己・佐藤八寿子)

日本語版への序文


「ヒトラーの成功はどのように説明できるのか?」

 この問いは絶えず新しく投げかけられている。ナチ党の権力掌握への「政治」は十分明らかにされたし、その社会的諸前提の解明に多くの歴史家が取り組んできた。しかし国民社会主義を勝利に至らしめ――そして今日もなお広く影響を及ぼしている――「政治」の新たな認識については、総じて言えば、周辺的に言及されるのみであった。本書が取り組んだのは、まさに自己表現によって政治と呼ばれ得る「政治」の把握である。この時代を体験した我々の多くは、ナチ宣伝を、また大衆の感性的動員を軽蔑的に語るが、次の事実を忘れている。つまり、問題は、主権在民に基礎づけられ、すでにルソーとフランス革命以来、近代の中心課題の一つと認められてきた政治様式なのである。すなわち、いかに一般大衆を国民国家に組み込み、いかに彼らに帰属感を与えることができるか、という問題である。

 本書で分析し記述するように、そこではシンボルと神話と大衆的示威運動が政治的祭儀としての役割を演じた。つまりこれは、ドラマとしての「政治」である。そこに各人は定められた自らの役割を見いだしたのであり、それこそ議会や選出された人民の代表者といったものと対立する政治認識であり、民主主義理解であった。この「新しい政治」、政党のではなく運動の「新しい政治」は、とりわけ危機の時代に効果があった。しかし、ナチ党が明らかにしたように、このような大衆政治の術を長きにわたって続けることはしばしば問題をはらんでいた。にもかかわらず、人民(フォルク)がいわば自己崇拝に耽る「一般意志」の自己表現は、現代社会の根本的な必要性に訴えていた。指導者はこの意志を誘導かつ組織し、下層民衆を規律のとれた御しやすい集団に変えようとした。こうした大衆の服従は大衆自らの熱狂に基づいていなければならず、それゆえ自由意志から生じねばならなかった。この点において、「新しい政治」の分析は、ドイツとイタリアのファシズムに付随した[大衆の]同意を理解するために役立つであろう。今日ではよく知られているように、ナチの権力掌握後の数年間、恐怖政治(テロル)はその特徴ではなかった。

 この決定的に重要な数年のあいだ国民社会主義が依拠した大衆的合意には、多くの理由があったが、政治的祭儀こそが多くの人々の意識において決定的であった。本書はこれを特筆した。たとえば「死の神話」の継続的活用など、ナチ祭祀(カルト)の諸要素が究明されたのみならず、イタリア・ファシズムの儀礼が、本書の指摘で初めて意識されるようになった。

 本書がファシズム研究の新しい出発点と見なされたといっても、おそらく大きな誇張ではあるまい。ファシズム運動が自らをまなざし、また表現したままにその運動をとらえようとした、新しいファシズムの理解に本書は到達したのである。また、ファシズムを、マルクス主義のような、一つのイデオロギーに押し込めることも敢えてしなかった。というのも、ファシズムは当時の経済的、社会的な危機に終止符を打つと約束したが、文化的な手法と偏見を利用して権力を掌握し保持したからである。国民主義(ナショナリズム)は物質的な関心のみに訴える社会主義よりも影響力のあるもの、あるいは効果的なものであった。この両者はともに密接に結びついていたが、物質的欲求に応えたのは、世俗宗教としての国民主義であった。これは「新しい政治」が最初から十八番(おはこ)とした分野であり、国民主義の儀礼や神話も「新しい政治」の領域にあった。『大衆の国民化』によって、読者はファシズムに関する一考察――広く流布したファシズム運動に関する今日的見解の形成にあずかった考察――に接することができよう。が、また読者は国民主義(ナショナリズム)の発展に対する新たな視点も本書から獲得できよう。しかし、本書はさらに熟考すべき以下の問いを読者に投げかけるに違いあるまい。

「新しい政治」の時代は国民社会主義をもってここに終焉したのであろうか?

 あるいは、

 今日のテレビ時代においても、その政治の「美しき装い」が、我々の一般的な状況認識を引き続き決定しているのではあるまいか?

 
   一九九三年七月十二日
   ジョージ・L・モッセ

 

*訳註の文中表記は[]を用いた。
*文庫版の傍点箇所には下線を引いた。

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