ちくま学芸文庫

戦国史をとらえ直した名著

藤木久志著『城と隠物の戦国誌』文庫版解説

大名たちの軍事拠点としてイメージされがちな、戦国の城。しかし、それは当時の庶民にとって村が戦場になったときの避難所でもあり、村人たちはいざという時のために日ごろから様々な工夫や駆け引きを行っていたのです。そんな民衆社会のサバイバル術を解き明かした本書『城と隠物の戦国誌』(藤木久志著)の読みどころを、NHKBSプレミアム『絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城』の”城マスター”としておなじみ千田嘉博先生が、ズバッと解説してくださいます。


 私たちは『城と隠物の戦国誌』を今こそ読むべきだと思う。現在、日本も世界も新型コロナウイルスの感染拡大に苦しみ、大きな混乱のなかにある。日本政府から各世帯に届けられたのはマスク二枚と一人当たり一〇万円の給付金。どれだけ自粛していても感染が拡大すれば、政府は「気の緩み」と国民を指弾し、職を失った人は数知れず、自殺者が急増しても、自己責任の「共助」「自助」ばかりが求められる。
 この二〇二〇年の状況は、本書で藤木氏が描いた飢えと貧困と暴力が横行した戦国時代と、どれだけ異なるだろう。戦国の民衆は自分自身の知恵と腕力で生き抜いた。だから中世は「自力救済」の社会とされる。しかし二一世紀の私たちの時代も、政府や勤め先を頼れず「自力」でサバイバルするしかない、もうひとつの戦国時代になってはいないか。本書の冒頭で藤木氏が「私たちの生きる現代もまた、『身構えた社会』そのものではないか」と投げかけた問いは、新型コロナウイルスによって分断や貧困、環境・災害などの課題が一層浮き彫りになった今、改めて深く心に響く。
 本書の執筆にあたって藤木氏がよった『戦国の作法』『戦国の村を行く』『村と領主の戦国世界』はいずれも衝撃をもって迎えられ、戦国史研究や城郭研究に大きな影響を与えた。そうして「戦争や飢餓に、いつも身構えた戦国社会のサバイバルのナゾ(危機管理の習俗)」を追求してきた著者が、さらに現地を訪ね、各地の考古学者との議論を重ねてまとめたのが本書である。
 大名や公家、僧侶などの視点から語られてきた戦国社会を、民衆の視点から捉え直した本書は、従来の戦国社会の見方と、そのイメージを根底からくつがえす斬新さを備え、画期的な歴史の読み解きに満ちている。根拠になる史料をひとつひとつ提示し釈文を付して、平易に誰もが内容を理解できる細やかなくふうは、藤木氏が研究の成果を学問世界だけでなく市民に届けることで、私たち一人ひとりが戦国の民衆のように時代を主体的に切り開いていく手がかりに本書がなるのを意図したからだろう。だから本書は精緻な歴史書であるとともに、一貫した強いメッセージ性をもっている。
 村が戦争の危機に直面したとき、何もしなければ敵方の雑兵たちによって、人は「人取り」されて連れ去られ、財産は「乱取り」によって奪われた。しかし戦国の民衆はこの過酷な状況を生き抜く危機管理方法をもっていた。それが本書のテーマである「城」と「隠物」だった。
 これまで城は武士が民衆を抑えつけた支配の拠点とされてきたが、実は戦国の城は村人たちの避難所であり、城の維持・管理も村ごとに分担して行っていた。中国の城郭ではそもそも領主の「城」と民衆の「郭」によってできていた。そして城郭から離れたところには民衆が自衛のためにつくった臨時の村の城「塢」が発生し、周囲に城壁を備えた常設の村の城へと発展していった。そうした中国で古代から認められた「堅壁清野」の作戦が、日本の戦国の習俗にもあったのを、著者は各地の実例を史料と現地調査によって解き明かしていく。
 中世の民衆が戦時に城や寺社に避難したことの意味は、長い間、注目されてこなかった。それは城や合戦を論じるのはアカデミックな歴史研究ではないという意識が、一九七〇年代まで強かったのに理由の一端があった。ようやく一九八〇年代になると、日本各地に遺跡として残る中世の城跡を地表面観察から把握して考える縄張り調査が、歴史研究の方法として認知されるようになった。
 本書の冒頭に登場する村田修三氏は、歴史研究としての城郭研究を先頭に立って推進した研究者である。著者は、城を「階級支配の道具」と位置づけ、村びとの暮らしとは無縁のものと考えた研究者の代表として村田氏を挙げる。しかし私はこの評価が適切とは思えない。村田氏は大和のさまざまな城跡を通じて在地構造を分析するなかで、はやくから環濠集落をはじめとした「村人たちがつくり維持した城」に注目し、また寺社の境内にあった城の考察をしてきたからである(村田修三「城跡調査と戦国史研究」『日本史研究』二一一号、一九八〇年ほか)。
 本書で著者が明らかにしたように、戦国の城が「避難所」として機能したことは確実といえよう。その一方で城が大名の軍事と地域支配の拠点であったことも事実であり、城が階級支配の道具であったのを見落としてはいけないと思う。その上で、藤木氏が本書を通じて明らかにした戦国の城が民衆の避難所でもあったという事実を、城郭考古学で遺構と遺物からいかに実証的に理解するかが、私たちに託された課題である。
 本書のなかで著者がしばしば論及したように、民衆の避難施設が簡素な小屋で、考古学的な痕跡を残しにくいという特性があった。大事なものは「隠物」「預物」にして城内に身ひとつで、あるいは牛や馬、鶏とともに逃げ込んだとしても、地面に痕跡を留めないような草木でできた小屋に寝泊まりしたとすれば、緻密な発掘を重ねても実証するのは難しい。
 本書ではヨーロッパのゲルマンの城を取り上げて、城に民衆が避難した場所が、城内の空地として考えられることを示した。そうした状況はたとえばモンゴルにある、十一世紀の契丹(遼)時代の城郭都市チントルゴイでも認められる。ここでは建物基壇が建ち並ぶ区画と、明確な建物痕跡が認められない区画が存在した(千田嘉博・坂本俊ほか編『チントルゴイ城跡の研究4──モンゴル遼代城郭都市の構造と環境変動』奈良大学、二〇一五年)。また元軍が一三世紀に築いたと推測されるロシアのサハリン南端にある白主土城(クリリオン城)の発掘では、城壁が囲んだ城内に建物痕跡が認められなかった(前川要編『北東アジア交流史研究』塙書房、二〇〇七年)。
 モンゴルとサハリンの事例は、いずれも簡易な建物である「ゲル」を用いたからと考えられ、現在のモンゴル・ウランバートルでも、鉄筋コンクリートの建物が建ち並ぶ中心市街地のまわりに、どこまでもゲルがつづく広大な地区が展開するのを見られる。現代のゲルを将来発掘したとしても、的確に痕跡を把握できないだろう。
 国内では秋田県の鹿角市の乳牛館で、厳重に堀と土塁で守った戦国期の曲輪内であったのに発掘で明確な建物を検出しなかった事例がある。まさに避難所として用いた可能性があると思う(秋田県教育委員会『東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅷ・Ⅸ』一九八四年、千田嘉博『織豊系城郭の形成』東京大学出版会、二〇〇〇年)。
 民衆が「城あがり」をしてどのようにすごしたかを城郭考古学的に把握できた希有な事例が、一六三七年(寛永十四)に起きた島原天草の乱の原城である。世界文化遺産に指定された長崎県南島原市の原城跡の発掘では、一揆に加わった民衆が城内でくらした竪穴建物を多数検出している。そして竪穴建物内で討たれた一揆方の人も発見していて、戦いの悲惨さを伝えている。
 このように一般的に発掘調査で痕跡を見つけにくいために、民衆が城のどこに、どのように避難したかを確定するのは難しい。著者は各地の城を訪ねて、その可能性を探ってく。その事例として山形県尾花沢市の二藤袋楯を取り上げ、城が村の避難所だった可能性を指摘した。しかし河岸段丘を背にした主郭と惣構えで守った外郭で構成した整った姿からは、積極的に村の避難所であったと評価してよいか疑問が残る。
 さらに著者は、城の惣構え内や城に近接した場所が避難所になった可能性を考えていく。事例として示された小田原城「百姓曲輪」を私も調べたことがあるが、秀吉による小田原攻めを契機にした小田原城の巨大な惣構えができる前は、丘陵の一角ではあっても特に防御に適した立地ではなかった。惣構え成立後は避難の場所として成り立っても、それ以前から長く地域の民衆の避難場所として存在したと考えてよいだろうか。
 そもそも惣構えなど城の外郭が、民衆の避難の場であることを主たる目的にしたかも、検討する余地がある。一五八四年(天正十二)の小牧・長久手の戦いに際して、織田信雄が最前線の岐阜県海津市の松ノ木城を守った吉村氏吉に対して、

加勢の儀を申してきたことはわかった。すぐに猛勢が取り巻くのであれば、少々の加勢を遣わしても如何かと思うので、あらかじめ外構えは撤退して、本城だけを専一に抱えるように覚悟するのがもっともである(「吉村文書」1)

と五月五日に書き送った。そしてほぼ一ヶ月後の六月二日に再度の援軍要請を受けた信雄は、

加勢の儀は、先日申したように、五百、千遣わしても、惣構えは持っていないとのことで、また本城の儀は、ちいさいので、加勢にはおよばない。納得して、丈夫に覚悟すべきである(「吉村文書」1)

と通告した。つまり松ノ木城の惣構えは、大名からの援軍を受け入れる駐屯スペースとして、きわめて大きな意味をもった。もちろんそれは惣構えに民衆が避難したという理解を妨げないが、民衆の避難の場所として惣構えがつくられたというより、大規模な大名間戦争になると、それぞれの城は城主の自力では守れないのを承知で大きな惣構えを備えて、大軍の駐屯スペースを準備したのである。
 だから各地の戦国の城の多くは巨大な惣構えを備えた。しかしそれは個々の城主の力を証明したものではなく、大名の軍事力に組み込まれた城主の姿を示すものだった。ただし惣構えは織豊期以前の戦国期から広く認められた。その事例として、尾張統一の歩みを進めていた織田信長の居城、清須城を見てみよう。信長が出陣中に攻められた場合に、

町人も惣構えをよく城戸をさし堅め(『信長公記』首巻)

と信長が指示したとあるように、町人が惣構え防衛の主力を担ったのがわかる。信長の出陣中だから臨時のことと解釈することもできるが、清須の町人のなかにはその後、三方ヶ原の合戦に加わって戦死した者もおり、惣構えを守ることがそもそも町人や、惣構えの中に住んで周辺の田畑を耕作した農民の役割だった可能性もあったのではないか。
 そう考えると、一五九〇年(天正十八)の秀吉の小田原攻めに対して、埼玉県の松山城主が累年城下にくらした町人たちに籠城を懇請したことが注目される。町人たちは必ず城主の城へ逃げなければならなかったのではなく、城主が籠城戦に勝つと予測すれば「城あがり」し、城主が負けると予測すれば、城主を見捨ててほかに避難したのが実態だった。
 城とは別にあった山中の「山小屋」「村の城」に籠もって難を逃れたのも、民衆のひとつの積極的な選択だった。そして持ち運べない財産は、穴を掘って埋めて隠したり、寺社や他所の村や町に預けたりした「隠物」「預物」で掠奪から守った。中世集落の発掘調査ではおびただしい穴や溝を見つけるが、そのなかで大きな穴を土坑と呼ぶ。著者が指摘したように、そうした土坑の中には財産を隠したものが多数あったに違いない。
 これも考古学から証明するのは難しい。戦いの後に埋めた財産を持ち主が掘り出してしまえば、穴を掘った意図を明らかにするのはほとんど不可能である。当事者にとっては不幸なことだが、土中に財産が残された事例をどう分析するかが課題になる。
 検討してきたように、本書が示した個々の城や遺構の解釈には、再検討が必要である。しかし著者が解き明かした民衆の危機管理の習俗の意義はゆるがない。本書は戦国史をとらえ直した名著である。その『城と隠物の戦国誌』が、ちくま学芸文庫の一冊になって永く読み継がれていくのを、心からよろこびたい。

(せんだ・よしひろ 城郭考古学者/奈良大学教授)

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