筑摩選書

盆踊りとロードサイド・ラップ

PR誌『ちくま』1月号より大石始『盆踊りの戦後史』について、著者によるエッセイを転載します。 「盆踊り」と「ロードサイド・ラップ」という一見相容れないように思える2つの表現には、どんな共通項があるのか? ぜひお読みいただければ幸いです!

 僕は埼玉県郊外のとある国道沿いの地域で育った。そのこともあるのか、物書きとしては「郊外の新興住宅地やロードサイドから生まれる表現」をテーマのひとつとしてきた。郊外生まれの表現者の中には、そこで育まれてきた視点や感覚がどのようにインストールされているのか。彼らの作品や発言を通して考えることが日々の仕事となっている。

 三重県四日市にJEVAという少々風変わりなラッパーがいる。代表曲のひとつは、ロードサイドのショッピングモールについてラップした「イオン」。「オラが街にも出来たぜイオン」と繰り返されるショッピングモール賛歌ともいえる曲だが、ラストにはこんな一節も飛び出す。「昔は良かったじゃないけども/豊かになるのもまた物悲しいかも/変わらず大好きな場所だけど/デカい力に呑まれた様な気分さ」――利便性を追求した生活の心地よさとそうした生活に巻き込まれるもどかしさが、わずか数十文字に凝縮されているのだ。

 ショッピングモール発のラップグループというと、Tohjiやgummyboyといった90年代半ば生まれのラッパーたちで構成されるMall Boyzというグループもいる。彼らは幼いころから新興住宅街のショッピングモールで多くの時間を過ごし、人工空間に対する愛着をラップの中に織り込んでいる。

 三浦展は著書『ファスト風土化する日本』(洋泉社)において、共通の風土も歴史も存在せず、無味の消費社会が形成された高度経済成長期以降の郊外について「地域固有の歴史、伝統、価値観、生活様式を持ったコミュニティが崩壊し、代わって、ちょうどファストフードのように全国一律の均質な生活環境が拡大した」と定義したうえで、その状況を「記憶喪失のファスト風土」と命名している。

 JEVAやMall Boyzは「ファスト風土」に抗うかのように「私たちはここに生きている」と宣言し、確かな風土と歴史をそこに刻み込もうとしているのかもしれない。彼らの作品は優れた批評性があると同時に、「文化的なものは何もない」とされるロードサイドにも表現の種があることを教えてくれる。

 僕は近年、戦後に生まれた新しいコミュニティーで盆踊りが果たしてきた役割についても取材を重ねている。盆踊りといっても伝統的なものばかりではない。古びたホーンスピーカーから「アラレちゃん音頭」が流れる手作りの盆踊り大会も取材対象となる。このたび刊行された『盆踊りの戦後史――「ふるさと」の喪失と創造』では、自分自身の幼少時代の記憶を手繰り寄せながら、劣悪な音響設備で「アラレちゃん音頭」が鳴り響くあの空間が担ってきたものについて考察した。それは「文化的なものは何もない」とされる空間に風土や歴史を見出そうという先の試みに繋がるものでもあるのだろう。

 新興住宅地のような新しいコミュニティーの場合、そこに住んでいるのは様々な地域からやってきた「多様なルーツを持つ人々」である。彼らの中に「私たちの場所」という共通意識を育み、共通の「ふるさと」を作り出すこと。それは地域コミュニティーを運営するうえで欠かすことのできないことであり、盆踊りの場はそこで一定の役割を担った。

 盆踊りは人と人を繋ぎ、人と土地を繋ぐ。東日本大震災の被災地で盆踊りが重要な役割を担ったこと。高度経済成長期、都市の周縁で拡大した労働者の住むエリアで数多くの盆踊りが立ち上げられたこと。盆踊りに関する事例の多くを「『ふるさと』の喪失と創造」という観点から捉え直すことができるのだ。

「アラレちゃん音頭」が流れる非伝統的な盆踊りとは、戦後始まった地域活動であると共に、退屈な日常を人間的なものに変える文化運動という一面を持っていた。そうした運動のすべてが成功したとは言えないが、僕にはロードサイド発のラップ表現と根底で繋がっているように思えてならないのである。

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