人生につける薬

第8回
「べき論」と道徳感情は「動物としての人間」の特徴である

物語は小説だけじゃない。私たちの周りにある、生きるために必要なもの。物語とは何だろうか?

道徳感情がストーリー脳を支えている 

 ここまで述べてきたように、ストーリーは人間の認知の枠組のひとつなのですが、そのストーリーとともに作動しがちな思考の枠組のひとつに、〈道徳〉があります。

 この連載の前回の最後で述べたように、人間は「できごと=事件」(非日常)を心のなかで解消しようとします(感情のホメオスタシス)。事件によって失われてしまった平常を取り戻すために、事件を起こした存在の責任を問い、その存在に報いを与えたくなってしまうのです。

 因果応報や勧善懲悪などの、道徳的なストーリーの型が、古今東西を通じてみられるのは、因果応報というスキーマ(図式)が、人間の心のなかに根深く巣食っているからです。

 「巣食う」だなんて、通常は「悪」にたいして使う言葉です。道徳的な感情にたいして使うのは、場違いに思うかもしれません。

 しかし、道徳感情は危険なものになりえます。そして、道徳感情は人間の「ストーリー脳」を支える基盤のひとつであるとも、僕は考えています。

「一般論」と「べき論」

 この連載の第5回で紹介した17世紀フランス古典主義文学における「適切」の概念からわかること、それは、「ほんとうらしさ」「納得感」の背後にmustという動詞のふたつの意味、
(1)蓋然性(××に違いない、のはずがない)=「一般論」
(2)義務(××すべきである、してはならない)=「べき論」
の両方が、どうやら同時に働いているらしい、ということです。

 (1)の蓋然性を求める「一般論」のほうは、いっぽうでは「おまじない」を生み出し、他方では実験科学を生み出し、テクノロジーや医療を進歩させてきました。これについてはすでに述べたとおりです。

 今回はmustのもう一つの意味、(2)の義務を求める「べき論」に焦点を当てて話を進めたいと思います。

 主人公が恋人の父を殺し、しかし恋人とはちゃんと結婚するという『ル・シッド』の筋が、当時の観客に抵抗感を与えたということは、当時の観客の頭のなかに、
(1)蓋然性=貞淑な(劇の主要人物にふさわしい)娘であるならば、父親の殺害者と結婚「するはずがない」
という「一般論」が存在し、それがまた
(2)義務=貞淑な娘であるならば、父親の殺害者と結婚「するべきではない」
という「べき論」としても機能していたのです。こういう「べき論」のことを、「当為」と言ったりします。要は義務としてのmustのことです。

 人間はこの(2)「べき論」をついつい、言ってしまいます。当為が成し遂げられること、義務が遂行されることを、ついつい期待してしまうのです。

ふたつのmustは喰い違うことがある

 ふたつのmust、「一般論」と「べき論」とは、しばしば喰い違います。

 「人は誠実に生きるべきである」は「べき論」ですが、「因果応報」「善因善果・悪因悪果」は「一般論」(諺で言えば「正直の頭(こうべ)に神宿る」)です。

 そして「一般論」には「因果応報」だけでなく、それと正反対の
「正直者が馬鹿を見る」
という一般論も存在します。

 これは、「渡る世間に鬼はなし」と「人を見たら泥棒と思え」という正反対の諺(一般論)が存在するのと同じです。

 〈人〉のなかに占める〈泥棒〉の割合は0%でもなければ100%でもありません。〈世間〉における〈鬼〉の含有率だって、0%でもなければ100%でもありません。一般論というものは、しばしばそういうものです。

 ただし、「正直の頭に神宿る」と「正直者が馬鹿を見る」とだったら、後者のほうがリアルに見えると感じてしまう傾向が人間にはあります。これを心理学では〈ネガティヴィティ・バイアス〉(ネガティヴ偏向)と考えています。

 ですから、あるストーリーのなかで、よい行いをした人が報われ、悪い行いをした人が罰を受ける、という展開は、感情のある層には「納得感」を与えますが、感情のべつの層には「ほんとうらしさ」が足りないという感じを与えることもあるでしょう。

 そのどちらも、感情です。

(1a)蓋然性a=「正直の頭に神宿る」 ─ (2a)義務=「人は誠実に生きるべきである」

(1b)蓋然性b=「正直者が馬鹿を見る」─ (2b)義務?(または処世術)=「人は抜け目なく生きるべきである」

 b系列の「人を見たら泥棒と思え」思想のほうが、一見頭がいいように見えます。しかし、それはまったく気のせいで、「人を見たら泥棒と思え」と言いたくなる感情は、自己防衛的な寂しさや恐れと考えたほうが実態に則しているように思えます。

 もちろんそれは、僕がお人よしだからかもしれませんが。

人間は道徳的な本能を持つ動物?

 〈二歳児はごっこ遊びの開始とともに、生涯つづく物語の創作と理解をはじめる〉(スティーヴン・ピンカー『人間の本性を考える』第20章、山下篤子訳、NHKブックス)

 ここでピンカーは〈物語〉を、この連載で言う〈ストーリー〉の意味で使っています。この連載では、ストーリーというものを、世界を時間と個別性のなかで理解するための枠組み、としてとらえています。

 あなたには、好きな人がいますか? また、苦手な人はいますか?

 どういう事情でその人やそのものを好きになったあるいは嫌いになったか、思い出せないことも珍しくありません。

 でも、もちろん、その人やものを好きになったり嫌いになったりするきっかけが、はっきりしていることもあります。

「あの人は以前、私にとても親切にしてくれたので、好き」

「あの店は、以前入ったときに、出てきた料理がまずかったので、もう行きたくない」 

 こういったエピソード記憶が、その対象になる人や店の好き嫌いの感情を決めてしまうこともあるでしょう。

人を邪魔する人より、人を助ける人を好きになる

 それどころか、エピソード記憶が発達する前の赤ちゃんですら、対象の好き嫌いを具体的なできごとから引き出します。

 このことでいつも思い出すのは、心理学者ポール・ブルームが、著書『赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源』(春日井晶子訳、ランダムハウス講談社)や『ジャスト・ベイビー 赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源』(竹田円訳、NTT出版)で繰り返し紹介している実験です。

 ブルームたち実験者は、被験者となった赤ん坊に見せるために、図形が出てくるアニメーションをつくりました。

〈赤い丸が丘を登ろうとしている。すると、黄色い四角が背後からやって来て、やさしく丘の上に押し上げる(助ける)。別の場面では、緑の三角が前方からやって来て、丸を下へ押し戻した(邪魔をする)。次に、赤ちゃんたちに、丸が四角か三角のどちらかに接近する画像を見せる。〔……〕
 九カ月児も一歳児も、丸が助けてくれた図形ではなく、邪魔をした図形に接近したときのほうが、見つめる時間は長かった〉(『ジャスト・ベイビー』第1章)

 ブルームによれば、赤ちゃんがより長く見つめる対象は、意外に感じた対象なのだそうです。つまり、意地悪な図形のほうに接近するのは、意外なことである、と赤ちゃんの段階ですでにそう感じているということになりますね。

 アニメーションのキャラクター(?)に過ぎない赤い丸が、丘を登ることに成功しようが失敗しようが、アニメーションを見ている赤ちゃん本人に直接の利害関係はないというのに。

 それでも、人を助けようとする人は、邪魔しようとする人より好かれてしまうのです。

 しかも人間は、言葉というものを持っていますから、人が親切をおこなう場面を直接見なくても、噂を聞くだけで相手に好印象を持ってしまいます(間接互恵的な好悪感情)。

「あの人は親切(ではない)らしい」
「あの人はフェアだ(ではない)」
「あの人は勇敢だ(ではない)」
「あの人は誠実だ(ではない)」

といった評判を聞き知って、人間は「あの人」(目の前のだれかであれ、読んでいる小説の登場人物であれ)のことを好きになったり嫌いになったりするし、また自分が「誠実だ」という評判を立てられることを目的に振る舞うことを考えてしまうのです。

間接互恵的な好悪感情

 生物体としての人類の歴史の大半は、ごく小さな群れで狩猟採集をしながら暮らしていた時間がほとんどです。僕たちが文化と呼ぶようなものが生まれたのは、人類の歴史のごく最近の短い期間のことなのです。

 進化理論では、人間の脳が持っている感情や、思考の癖、認知バイアスの数々を、文化以前の、群れで狩猟採集をして暮らしていた人間の行動パターンから生まれたものだと説明することがあります。

 狩りに成功する日もあれば、失敗する日もあります。獲物を得た人は、獲物を得ることができなかったメンバーに、獲物を分け与えます。

 そうすれば、自分がうまくいかなかった日には、周りの誰かに獲物を分けてもらえるのです。このような互恵的なシステムがなければ、小さな群れはさっさと滅んでしまい、人類は現在のような繁栄を謳歌することができなかったでしょう。

 単に、親切な人が好かれるというだけでは、このシステムは機能しません。

 ずるい人やがめつい人が嫌われ、自分はなにも提供しないのに他人からもらってばかりのフリーライダーが共同体から排除され、不正をおこなったメンバーが罰を受ける、というところまでいかないと、このシステムは完成しないのです。

 ここから、道徳というものが生まれ、また法という制度もこのシステムにかかわっています。

 人を助ける人は赤ちゃんにも好かれる、という話をさきほどしましたが、赤ちゃんどころか、「不公平嫌悪」という現象が、人間以外の霊長類の一部にも見られるということを、動物行動学者フランス・ド・ヴァールは指摘しています(『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』柴田裕之訳、紀伊國屋書店)。

 人はどのように生きる「べき」か。

 どのように生きる「べき」でないか。

 「べき論」は小さな群れで暮らす霊長類が置かれていた、「公平に扱われないと不利になる」という強迫的な状況から生まれた、という考えかたがあるわけです。

 人間に義務の遂行を要求してしまう道徳感情には、どのような人間学的な、そして物語論的な問題が潜んでいるでしょうか。                  (つづく)

 

 

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