ちくまプリマー新書

地方を「じかた」に戻すために

小松理虔『地方を生きる』の書評エッセイをミシマ社の三島邦弘さんが寄稿してくださいました。タイトルの「じがた」とはどういう意味でしょうか?答えはある哲学者の言葉にありました。

 果たして本書のタイトルは何と読むのだろう? ちほうをいきる? あるいは、じかたをいきる、だろうか。いやいや何を言っている、ちほうに決まっているだろう。たしかに、私も四年前までは、そう思っていた。だが、私が編集長を務める年刊誌「ちゃぶ台」の取材で、哲学者の鷲田清一先生にお話を聞いて以来、その思い込みをあらためた(ちなみに、この時の特集の一つは「百姓のすすめ」で、前年の創刊号は移住特集だった)。

 「地方って言い方、嫌いやねん。中央に対して地方とみんな思ってるけど、もともとは、地方と読む。流通の場所である町方に対して、生産の場所が地方」。明治以降、生産の場である農村に大資本の手が入る。資本側は、当然、効率的な生産を農村に求める。その結果、養鶏、蚕、野菜、農具づくりまで当たり前だった農村の生産が、米や麦だけ、のように単純化していく。やがて町方と対等の関係だった地方は中央の支配下にある地方へとなりさがる……。私自身、地方を「ちほう」としか読めなくなっていたことに、なによりその支配の絶対さを痛感した。
 
  鷲田先生の肉声とともにそんな記憶を辿りながら本書を紐解くと、まさに地方の呪縛から話は始まった。福島県いわき市小名浜出身の著者は地元に愛着などなく、当然、東京に出るものと子どもの頃から考えていた。大学卒業後、故郷ではない福島市のテレビ局に三年勤めた後、上海へ。日本語教師や雑誌記者などを経験。そこで視点の大転換が起きる。上海のグローバルイメージを記事にするより、地元民しか知らない食堂特集などローカルな情報であるほど読者に「深く刺さる」ことを知るのだ。それは同時に、中央に憧れ、地元を「つまらない」と決めつけていた自身の視点の狭さを逆照射させる。地元が面白いかどうかを言う前に、自ら「面白がる」ことをしていなかったと気づいたわけだ。
 
 こうして戻ってきた地元は、郷里である以上に活動拠点となる。ウェブマガジン、オルタナティブスペース(多目的空間)の立ち上げと運営、原発の風評被害下での海洋調べ隊の活動(著者の担当はとにかく釣る!)などなど。充実の仕事をし、食も豊富で美味しい。地元はつまらないどころか、魅力であふれた地方の場となっていく(この辺りは、ぜひ本書で味わっていただきたい)。
 
 とはいえ、つまらないと感じていた空間が魔法で百八十度激変、なんてことは現実にはなく、「クソ」な事情も綴られる。賃金の低さ、風通しの悪さ、職の選択肢の無さ、同質性と排他性……。とかく商店街崩壊の元凶と批判されてきた大型スーパー(イオンなど)が、最低賃金の引き上げ、時間外労働の取締りなどで一定の役割を果たしたとの指摘は目から鱗だった。その地域の実態は、そこで生活しないことにはわからない。
 では、これからのローカル・コミュニティはどうするといいのだろう? その考察が示唆に富む。目的遂行型の「やるコミュニティ」だけでなく、ただそこにいるだけで許される「いるコミュニティ」も必要。また、公共性の回復といったお題目より、まずは個人の実感ベースでの充実が先。そうなれば結果として公共性は生まれる――。

 「面白がる」「地元のことは地元で決める」と著者は幾度も語る。死者や未来の子どもたちを含めた「ソト」の声を聴きつつ、今ここに暮らす人たちが失敗を恐れずに主体的に決め、生きていく。東日本大震災、コロナ、人間関係を分断する天災、人災を経た今、都市、農村を問わず、あらゆる場所でこうした一人ひとりのちいさな取り組みからやり直すしかないのではないか。
 
 大きな物語に寄りかからず、土地に根ざしつつ、開かれつつ、面白く――。現代の地方のあり方はすでに始まっているのだ。
 
 そんなことを考えながら本を閉じた。が、その瞬間はたと思い至った。問うべきは、自らに対してだろう……。大上段に構え、よしよし、こうした動きは日本中で起こっているだろう、嬉しい喜ばしい、なんぞと傍観者ぶっている場合ではない。それこそいまだに、中央から地方へと言葉を届ける、それがメディアの仕事、出版業だとどこかでまだ思っている証拠だ。わが思考の淀みというほかない。
 
 生産者と消費者という固定した関係のなかで発想する、中央から最大の効率化を図って記号を投げかける、こうした古い枠組みから自ら出ること。地方を生きる、その一歩はここからだ。