ちくま新書

古代、女帝は例外ではなく普遍だった

古代の皇位継承は女系と男系の双方を含む「双系」的なものだった。史料と真剣に向き合い、古代王権史の流れを一望し、日本の女帝像、ひいては男系の万世一系という天皇像を完全に書き換える第一人者による決定版。『女帝の古代王権史』より「序章」を公開いたします。

†女帝は例外か普遍か
 現在の日本の天皇は、初代神武から数えて126代目とされる。そのなかで女帝(女性の大王/天皇)は、古代に推古・皇極=斉明・持統・元明・元正・孝謙=称徳の8代6人、近世に明正・後桜町の2人で、計10代8人である。総数からみれば、ごく少数の例外ということになる。
 もっとも126代のなかには、初代神武および「欠史八代」といわれる2代綏靖から9代開化までの、歴史学では実在の強く疑われる天皇も含まれている。私たちが辞典や新聞などで目にする神武以降歴代の数と名前は、実は、大正15年(1926)に確定した。政争に敗れた側や南北朝対立時期の天皇の誰を加え/省くか、伝承上の誰を天皇と認定するかをめぐっては、すでに中世~近世の史書においても様々に見解の相違があった。近代天皇制国家の発足にあたり、対外的にも歴代を確定する必要に迫られた政府は、審議を重ね、ようやく公式に定まったのが、1926年だったのである。この審議の過程で最終的に、伝承の神功皇后や飯豊青尊(飯豊天皇)は「女帝」枠からはずれた。
 こうした問題はあるものの、それを考慮しても全体からみれば女帝はごく少数である。しかし、これを「例外」として片づけてしまってよいものだろうか。それは歴史学的見方とはいえまい。歴史的にみると、女帝は6世紀末から8世紀後半にかけて8代6人が集中している。6~8世紀の倭/日本には、女の王を普遍的に生み出す条件があり、8世紀後半以降はそれが失われていったとみなければならない。その条件と、それがなぜ失われていったのかを明らかにすることが、歴史学の課題だろう。
 同じ時期の男帝の数もほぼ同じなので、男女の割合は半々ということになる。つまり古代においては、女帝の存在は例外ではなく普遍だったのである。

†双系社会と長老原理
 女帝を普遍的に生み出した条件とは何か。それは双系的親族結合と長老原理である。生まれた子どもが父方の一族に属するのが父系社会、母方に属するのが母系社会である。厳密な父系社会では、父系でつながる一族は同じ姓を称し、一族の内部での婚姻は禁じられる(族外婚/同姓不婚)。婚姻を通じて、異なる一族と社会的に結びつくシステムといえよう。中国は典型的な父系社会だった。父方の親族だけが社会的に重んじられ、地位の継承は男子の血統を通じてのみ行われるのである(男系継承)。
 それに対して双系的親族結合を基本とする社会では、父方と母方のどちらに属するかは流動的で、父方母方双方の血統が子の社会的・政治的地位を決める上で重要な要素となる。人類学的な知見によると、こうした社会は東南アジアから環太平洋一帯に広がりをみせていて、日本列島もそこにつらなる。古代の倭/日本は、もともと双系社会だったのである。
 中国のような族外婚/同姓不婚のルールがないことは、倭/日本の社会の大きな特色で
ある(現在に至るまで)。古代の王族男女は、父方母方の区別なく濃密な近親婚をくり返した。それにより双系社会での一族の絆を強め、権威と権力を高めていったのである。
 だが、先進文明国中国の周縁に位置し、中国をモデルに国家形成を遂げていく過程で、倭/日本は7世紀末~8世紀初に、中国の体系的法典である律令を国家の骨格として導入した。父系原理/男系継承の社会で長年かけてできあがった法体系が、全く異なる親族原理の社会に接ぎ木されたのである。
 このことは、社会全般に大きな影響をおよぼした。直接には官人の氏族意識・家意識、王位継承観に変容を促し、それがやがては古代女帝の終焉をもたらす。双系的血統を尊重する観念はその後の貴族社会にも残り、庶民の間では、公的父系原理のもとで双系的親族結合が現実に意味を持ち続けた。しかし全体としてみれば、日本は父系社会になっていったのである。
 双系社会でリーダーとなったのは、男女の長老である。6~7世紀の大王/天皇たちは、男女ともにほぼ40歳以上で即位したことが明らかにされている。父系直系継承は必然的に幼年での即位につながるものだが、6~7世紀はそのような継承が行われる社会ではなかったのである。未熟な国家体制のもと、経験を積んだ熟年の王の人格的指導力が、統治の必須要件だった。
 7世紀末に、初めて15歳の少年(文武)が祖母(持統)の後見のもとに即位する。律令国家体制の導入によって可能となった、大きな転換である。持統は退位後も孫との“共治”を続け、この転換をのりきった。
 長老女性が退位後も太上天皇として年少男性を支え育成するというシステムが持統によって築かれ、8世紀を通じて律令国家における君主権の強化を実現した。双系社会の長老原理を土台に、新たに導入された直系的継承へのソフトランディングがなされたのである。8世紀後半に女帝が終焉した後、数々の模索を経て、父系直系継承原理のもと即位した幼帝を母后と外戚摂政が支える新たなシステムは、9世紀半ば以降に築かれていく。

†見のがされてきた史実
 研究史の流れからみると、1990年代末に性差を前提としない王権研究の必要が提起されるまで、古代の女帝は父系直系継承を支えるための「中つぎ」とみなされてきた。通常の皇位継承に困難がある場合に、一時的に緊急避難の意味で擁立されたとする見方に疑問がもたれることはなかったのである。しかし、皇位継承に困難を生じることは、その後の歴史の中でもたびたびあったが、必ずしも女帝の擁立には結びついていない。古代の6~8世紀に熟年男女がこもごも即位したこと、それが9世紀以降は絶えることの歴史的意味が、「中つぎ」説では解明できないのである。
「中つぎ」説は皇位の男系男子継承が法制化された明治に生まれ、1960年代に学説として確立した。その頃までは、父系直系ないし兄弟継承が日本古来の原理と考えられていたのである。しかし現在では、そもそも世襲王権の成立自体、6世紀前半の継体~欽明以降とみることが、ほぼ学界での通説となっている。『日本書紀』が記す最初の女帝推古は欽明の娘で、兄弟3人に続いて即位した。世襲原理が王位継承の基本となった時、双系的血統観のもと、熟年の男女がこもごも王位についたのである。
『日本書紀』を丹念にみていくだけでも、推古がすぐれた統率力を発揮して、有力豪族の支持を得て即位するに至ったことは、明瞭に浮かび上がってくる。他の女帝たちについても同様に、それぞれの治世でどのような統治を行ったのかが、近年、具体的に明らかにされつつある。かつては女帝は「仮の即位」で、実際の政治は皇太子や大臣が行ったとみられていた。だが現在は、その頃とは面目を一新した状況にあるといえよう。
 これまで女帝を「中つぎ」とみなし、その統治実績を真剣に検討しようとしないことで、あまりにも多くの史実がみのがされてきた。本書では、史料と真剣に向き合い、王権史のなかでの古代女帝の真実の姿を明らかにしていきたい。

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