ちくま学芸文庫

自然への愛、そして尽きせぬ情熱

『ナチュラリストの系譜ーー近代生物学の成立史』:ナチュラリストの肖像を読む

18世紀は啓蒙の時代である。この時代の自然誌研究を代表するリンネとビュフォンの思想は、ともに専門外の人びとに植物や動物への興味をわかせた。ジャン・ジャック・ルソー(1712‐78)に思想の火花を与えたのはビュフォンであり、傷ついたルソーの心に慰めを与えたのはリンネである。 花葉の構造・配列を観察し、配列と規則性などから分類していくーー詳細な「神の財産目録」を作成するがごとき膨大な作業と試行錯誤を重ねる、近代生物史上の偉大なる〈ナチュラリスト〉たち。彼らの肖像と業績を追っていく、木村陽二郎著『ナチュラリストの系譜』のなかから「ジャン・ジャック・ルソーの植物学」の一節を公開。



野の草花とともに

ルソーは、1770年6月14日、フランス国内の旅行からパリに帰り、パレ・ロワイヤルに近いプラトリエール街(のちのルソー街)に住み、静かに質素に暮らした。この年に『告白』を完成した。そのなかの彼の思い出には、ヴァランス夫人が大きな位置を占めている。16歳のとき夫人に会っていらい30歳でそのもとを去るまで、一時は旅に出ても、つねに夫人のもとに帰っていた。夫人の相談役のクロード・アネが1741年に亡くなるまで、3人の生活は比較的落ち着いていた。
 この時代、ルソーは、植物を学ぶ機会はあったが、興味を示さず、もっぱら音楽を学んでいた。アネは、薬草にくわしく、植物を採ってきては、それで夫人のために薬を調製した。アネは、ルソーを植物採集にひっぱり出そうとした。
「もし一度でも彼について行ったなら、植物学はわたしをとりこにしただろう。おそらく大植物学者になったろう。なぜなら、わたしにとって植物の研究ほど性に合ったものを知らないのである」とルソーはいう。
 当時の人が植物に興味を示すのは、それを薬とするためであった。それゆえ植物学を勉強するのは、まだ医者か薬学者であった。薬用植物と一般の植物とを何ら区別せずにリンネが植物の本を著わしたことは、むしろ注目に値することだった。のちに、ルソーが植物に熱中して採集していると、人が薬草をさがしていると思い、「何に効きますか」などとたずねるのに、彼は腹を立てた。ルソーは、薬のためにのみ採集することを極度に軽蔑し、植物を愛好するためにのみ植物を採集して観察するのだった。
 有名人となり、迫害される身になって、スイスの山や湖で学んだ植物学は、1770年にパリにもどってからも、彼の生き甲斐であった。
 一時は植物書や標本を手放すこともあったが、ふたたび、いままでよりも熱心に植物の研究をはじめ、パリの植物園や近郊の森、ムードン、モンモランシイ、ヴァンセンヌ、ブーローニュ、サンクルー公園などを、ときにはひとりで、あるときは植物園のベルナール・ド・ジュシューやその若い甥ロランと、ルソーの保護者であり植物愛好家であるクレチアン= ギヨーム・ド・ラモワニヨン・ド・マルゼルブ(1721―94)やその仲間と、またベルナルダン・ド・サン・ピエール(1737―1814)らと植物を採集し、夜にはその採集品を押し葉とした。彼のつくった腊葉標本はあちこちに残っている。パリの植物園にも、彼の作製した標本が台紙に貼付されて綴じてあり、いまも大切に保存されている。現在、この宝物を見るには、教授の許可がいる。
 ルソーの晩年を、わたしたちが知ることができるのは、ベルナルダン・ド・サン・ピエールのおかげである。彼はル・アーヴル Le Havre で生まれ、12歳でマルチニックに旅し、1758年に技師となったが、理想的共和国をつくるという夢をいだいて、1761年から5年間、ヨーロッパ各地をまわり、また1768年から2年間、インド洋にあるモーリス島に滞在した。そしてフランスに帰って、まだ無名作家であった彼は、ルソーに会った。彼にはルソーと相通じるものがあった。性情の繊細さ、自然への愛である。のちに『自然研究』を出版、その第4巻が有名な「ポールとヴィルジニィ」(1788)である。現在、国立自然誌博物館の事務所の近くに彼の銅像が建っていて、その台座にはポールとヴィルジニィも像となっている。サン・ピエールは、1792年から1年間、王立植物園長を務め、最後の王任命園長Intendant だった。
 1771年、サン・ピエールはルソーを訪ね、晩年の最も親しい友人となったが、その生活ぶりを次のように記している。
 
「ルソーは夏には5時に起き、7時半まで写譜をして、それから朝食をとり、食事のあいだ、前日の午後採集した植物を紙の上にひろげることに没頭する。朝食がすむと、ふたたび写譜をし、12時半に昼食、1時半になると、シャンゼリゼのカフェにコーヒーを飲みに行く」
 
 ここでルソーは、サン・ピエールと落ち合うのである。太陽が照りつけても、身体のためになるといって帽子はかぶらず、小脇にかかえている。日が暮れるすこしまえに散歩からもどり、夕食をとる。そして九時半に床につく。食物に対する好みは淡白で、自然であった。
 パリから田舎道にさしかかると、「やっと馬車や舗道や人間から解放された」といって、ルソーの顔から暗い影が消えたが、帰りにパリの町へ近づくと、ふたたび暗影がさしてくるのだった。
 ルソーはつねに自然の美しさに対してのみ感動した。彼は植物採集のとき、虫めがね(ルーペ)を手に持ち、それで野の花を眺めて、その美しさを観賞し、花屋で売っている人工的に栽培された花は好まなかった。
 1776年、64歳の彼は、『孤独な散歩者の夢想』を書きはじめ、その「第十の散歩」を未完成のまま、1778年5月22日、エルムノンヴィルに行ったが、7月2日にその地で亡くなった。遺言により、住居に面したポプラ島に葬られた。そこは、ルソーの安らぎの地にふさわしかった。フランス革命後、革命の恩人として、彼の遺体はパリのパンテオンに移し祀られた。論敵ヴォルテールの墓と並んでしまったのは皮肉なことと思われる。
 ルソーが息を引きとったとき、彼の部屋にあったのは、幼いときからの愛読書のプルタルコスの『英雄伝』のほかに、『タッソー』、ビュフォンの『自然誌』1冊(おそらく第2巻)、それに彼の書いた「村の占師」の楽譜、音楽辞典、そのほかは12冊の植物書であった。

 

 

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