はじめての哲学的思考

第9回 世界は欲望の色を帯びている

 前回は、哲学的思考の第一の“奥義”、すなわち“思考の始発点”についてお話しした。
 さまざまな問題を、僕たちはいったいどこからどう考え始めればいいのだろうか?
 その答えは、この世に絶対の“真理”なんてものはなく、いっさいは僕たち自身の“確信”“信憑”である、ということだった。
 だから僕たちは、「何が真理か」と問うのでも、「真理なんてない」と否定しつづけるのでもなく、お互いの“確信”や“信憑”を投げかけ合って、“共通了解”を見出そうとする必要がある。

欲望相関性の原理

 じゃあ、僕たちはなぜ、そしてどのように、さまざまな“確信”や“信憑”を抱いているんだろう。
 今回は、まずこの問いについて考えてみよう。
「これはグラスだ」とか、「この人は善人だ」とかいった“確信”や“信憑”は、いったいどのように僕たちにやって来るのだろうか。
 この問いに最も原理的な答えを与えたのは、ニーチェやフッサール、それにフッサールの弟子のハイデガーや日本の哲学者の竹田青嗣などだ。
 彼らの出した結論は、簡潔に言えば次のようなものだった。

 僕らは世界を、僕たちの“欲望”や“関心”に応じて認識している。

 たとえば、僕は今目の前のグラスを飲み水を入れる容器として認識しているけど、なぜそのような“確信”が訪れているかといえば、僕が今「のどが渇いた」「のどをうるおしたい」という欲望を持っているからだ。
 でも、もし僕が今だれかに襲われたなら、このグラスは反撃のための武器として認識されるかもしれない。あまりに退屈な時には、オモチャにだってなるだろう。
「この人は善人だ」という“確信”や“信憑”もおんなじだ。客観的な善人なんていない。僕の何らかの欲望や関心のゆえに、僕はその人を善人として認識しているのだ。

 以前(第3回)、僕たちは「事実の世界」に先立って「意味の世界」を生きているというお話をした。どんな“事実”も、それに僕たちが“意味”を見出さないかぎり、僕たちにとっては存在しない。
 この「意味の世界」というのは、言葉をかえれば欲望の世界のことと言っていい。長寿や健康への欲望がなければ、人体メカニズムの“事実”は僕たちにとって存在しないし、農耕の必要や夜空の美しさへの関心がなければ、天体法則の“事実”もなかったはずなのだ。
 世界はつねに、僕たちの欲望の色を帯びている。哲学者の竹田青嗣は、これを「欲望相関性の原理」と呼んでいる。文字通り、世界は僕たちの欲望に相関して――欲望に応じて――その姿を現すということだ。
 言われてみれば当たり前、でも言われるまでは意外に思いいたらない、哲学の基本にして最大の“奥義”のひとつと言えると思う。

欲望の前にはさかのぼれない

 この原理が“原理”の名にふさわしいのは――つまりだれもが納得できる最も深い考え方と言えるのは――これが僕たちにとって“たしかめ可能”な最後の地点だという点にある。
 僕には今、水が飲みたいという欲望がある。
 この欲望を、僕たちは疑いようなく“たしかめる”ことができる。
 僕には好きな人がいる。その人と、ずっといっしょにいたいと思っている。
 その欲望を、僕はやっぱり疑いようなく“たしかめる”ことができる。
 今、僕は目の前のケーキを食べたいと思っている。そしてその欲望を、僕はやっぱり“たしかめる”ことができるのだ。

 ところが、なぜ僕がそんな欲望を持っているのかと問えば、とたんに確実なことが言えなくなってしまう。
 僕が今ケーキを食べたいのは、頭が疲れて糖分を必要としているからかもしれない。あるいは、生クリームの柔らかそうな感じが、脳を刺激して舌に快感を求めるよう指示を与えたからなのかもしれない。
 仮説ならいくらでも立てることができる。でもそれはどこまで行っても仮説であって、何が僕たちに欲望を抱かせるのか、その絶対的な理由を知ることは決してできないのだ。

 第5回で、「一般化のワナ」についてお話をした。僕たちは、基本的に経験に基づいて物を考える。だから、時に自分の経験を過度に一般化して、それがほかの人にも当てはまることのように考えてしまうことがある。そんな「一般化のワナ」に陥らないよう注意しよう。そんなお話をした。
 勘のいい読者は思われたかもしれない。「あれ? ってことは、僕たちはさまざまな“確信”や“信憑”を、欲望に応じてって言うよりは経験に応じて抱いているんじゃないの?」と。別の言い方をすると、「そもそも僕たちの欲望は、何らかの経験を通して作り上げられたものなんじゃないの?」
 とてもいい、鋭い疑問だ。
 ところが上に述べてきた理由から、僕たちはやっぱり、それは「欲望」に応じてだと言うべきなのだ。
 なぜなら、今の僕の欲望が本当に経験によって生み出されたのかもまた、僕たちはやっぱり、究極的には知りえないからだ。
 たしかに、僕が今このケーキを食べたいと思っているのは、これまでに美味しいケーキを食べてきた経験があるからかもしれない。
 でも厳密に言って、その因果関係は本当のところ分からないのだ。
 そんな経験がなかったとしても、僕はこのケーキを食べたいと思ったかもしれない。極端な話をすれば、僕のこの欲望は、経験とは関係なく、もしかしたら誰かに催眠術をかけられて抱いているものかもしれないのだ。
 さらに言えば、この欲望は、そもそも遺伝子にインプットされている欲望なんじゃないかとも言える。
 経験なのか、催眠術なのか、遺伝子なのか。欲望の究極原因はいったい何なのか?
 この問いに答えることは、僕たちには決してできないのだ。
 その一方で、僕がこのケーキを食べたいという欲望を抱いてしまっていることそれ自体は、どうしたって疑えない。その欲望に応じて、このケーキが美味しそうな食べ物としての“意味”を帯びて存在していることは、疑えない。
 ぼくたちに“たしかめ可能”な最後の地点、それは、今僕がこのような欲望を抱いているということ、そしてその欲望に応じて世界を認識しているということ、そこまでなのだ。

 なんてめんどくさい議論……と思われたかもしれない。でもこれまで繰り返し言ってきたように、疑える可能性のあるものについては、これを“思考の始発点”には決してしない。それが哲学的思考の鉄則なのだ。
 以上のように、「欲望相関性の原理」は、人間の認識にかんする原理の中の原理とも呼ぶべきものだ。哲学における“思考の始発点”、それは、一切は僕たちの“確信”や“信憑”であり、そしてその“確信”や“信憑”は、僕たちの欲望に応じて抱かれるという点にあるのだ。

哲学原理を使いこなす

 さて、この「欲望相関性の原理」、僕の考えでは、実は驚くほど応用の可能性に開かれたものだ。
 というのも、日頃出くわすさまざまな問題から、政治的・社会的な問題にいたるまで、「欲望相関性の原理」を底に敷けば、僕たちはかなりの程度それらを解き明かすことができてしまうからだ。
 とりわけ威力を発揮するのは、僕の考えでは次の2つの問題だ。
 1つは“信念対立”の問題。もう1つは、“生きづらさ”や“不幸”“絶望”などの、いわゆる実存的問題だ。

 次回は、まず1つめの問題についてお話ししたい。
 学校や仕事、家庭など、僕たちは日常生活のさまざまな場面で、日々信念の対立に遭遇する。
 この対立を、僕たちはどうすれば乗り越え、そして“共通了解”を見出すことができるのだろう?
 哲学的思考の“奥義”の役立て方を、次回以降存分にお伝えすることにしたいと思う。
 

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