ちくま文庫

豚さんたちの未来予想図
栗原康著『はたらかないで、たらふく食べたい 増補版――「生の負債」からの解放宣言』書評

栗原康さんの傑作エッセイ『はたらかないで、たらふく食べたい 増補版』の赤坂憲雄さんによる書評を公開いたします。豚さんたちのあしたはどっちだ⁈

 それにしても、この豚さんたちの氾濫はなんだろうか。どこかマゾっぽい自画像なのか、社会批判としての寓意かメタファーなのか、時代の空気のなかでせりあがりつつある人間像そのものなのか。むろん、そのいずれでもあり、またなにかもっと遠くにある予兆のかけらなのかもしれない。ともあれ、これは豚さんをめぐる思索と探究の書なのである。生傷だらけで、ときには深刻にも血まみれで、それでいてなんだかかわいらしい戯れが演じられている。
 この人はとにかく、豚さんにこだわる。豚の比喩をやたらに使う。なぜだろう、と自問をしながら、みずからの実存にかかわるのではないかと気づく。おばあちゃんちの豚小屋から、豚の鳴き声がピイピイ聞こえてくる。かわいい豚さんたち。その豚小屋には、やがてフィリピンの娘たちが閉じこめられて、奪われ、利益をむさぼられる。幼い原風景だ。ウンコだ。娘たちは夜逃げする。愛欲の業火だ。それははたして、豚小屋という「ひとがひとを支配する普遍の秩序」を焼き尽くすことができるか。豚が鳴く、豚の女がピイピイとわめく。これぞ、「この世に存在しないことになっている者ども」の抵抗だ。ただ、命を奪う者たちに不快感をあたえてやりたい。
 豚さんの物語はしかし、きわめて多彩にして、入り組んでいる。それが救いであり、希望だ。アナキストの仲間入りした高群逸枝が、女は結婚すると、豚として飼育され、家畜になる、男のために奉仕する奴隷であり、財産である、と託宣をのべる。だから、家のない家畜であれ、おのれの「豚」にひらきなおれ、豚小屋に火を放て、とこの人はいう。豚のままでいい、真っ黒な大地の豚であれ。
 地にうずもれた大地のブタたちよ、たちあがれ。唐突に、相互扶助が浮上する。それは「豚小屋を逃げだした豚どものつどい」だ、という。網野善彦さんが「無縁・公界・楽」と呼んだものか。網野さんまでアナキストの仲間入りだ。不意に、「豚の足でもなめやがれ」という声がする。いいな、これ。
 この本にはそういえば、「生の負債」からの解放宣言、という勇ましい副題が付いている。とはいえ、この人はあくまで心優しく、とびっきり腕っ節の弱そうなアナキストなのである。たがいに負い目を重ね、見返りを求めるようになると、生きることが負債になる、生の負債化ってやつに搦めとられる。だからこそ、消費の美徳とむすびついた労働倫理に、終止符を打つべきだ。豚にして、高等遊民にして、ニートのようなアナキストは、そう叫ぶ。
 それにしても、「ルンペンプロレタリアートと、フリーターやニート、ホームレスの抑圧のされかたがおなじだということだ」などと、いきなり呟かれてみると、眠気がふっとぶ。生の負債からの解放だ。はたらかないで、たらふく食べたい。
 栗原さんはだれかに似ている、この人の文体や匂いは、太宰治あたりに近いものがある、とたいした根拠もなく感じてきた。被虐的な身振りのゆえか。ときおり、差し込まれている小咄からあふれだす哄笑のゆえか。
 ところで、宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」を思いだす。あの豚さんは働かないで、たらふく食い物を胃袋にぶちこまれて、歩くのが難儀なほどの肥満の果てに、はふられ、(書かれてはいないけれど……)人間たちに喰われたのだった。はたらかないで、たらふく食べたい、という呪文に出会うたびに、わたしはひそかに息苦しくなった。
 なにしろ、アメリカのような苛烈な格差の国では、毎日ハンバーガーばかりを頬張る貧しい人たちこそが、でっぷり太っているらしい。未来がくっきりと像を結んだ。もう豚さんは働かなくていい、フォアグラみたいに胃袋にたらふくエサを流し込まれて、歩けないほど肥え太ったすえに、喰われるか、健康な臓器をひとつひとつ白豚に奪われながら、緩慢に死んでゆくか、どちらかだ。残酷な未来予想図のゆくえについて、いつか、この人と語りあってみたい。
 

 

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