筑摩選書

男はなぜ「それ」を恥じるのか?

多数派にもかかわらず、多くの男性が恥ずかしいと感じ、秘密にしようとする――、それが仮性包茎。現実には女性は気にしていなくても、「女に嫌われる」との広告に煽られ、医学的には不要な手術に走る男たち。この「恥」の感覚はどこから来たのか? その起源をさぐるべく、江戸後期から現代まで、医学書から性の指南書、週刊誌まで膨大な文献を読み解き、その深層に迫った『日本の包茎』。12年の歳月をかけて書かれたこの本の「序章」(一部)を公開します。ぜひお読みください!

多数派なのに恥ずかしい
 日本人男性の多くは包茎であることを恥ずかしいと思っている。包茎は、若者向けの性の悩み相談の上位にいつもいる。主要都市には包茎治療をうたうクリニックがかならずといっていいほどあり、それだけニーズがあることをうかがわせる。「包茎は男として半人前」、「女にモテない」といったフレーズを雑誌やネットで見かけて肝を冷やした。そんな男性の声を聞くこともある。
 自身が包茎であるために、修学旅行や社員旅行で集団入浴するのを死ぬほど嫌う人もいる。ある医師は、性器にかんする劣等感をかきたてられる男風呂を「地獄」になぞらえた。包茎であることを気に病むあまり、うつ病になる者もいるという。
 包茎者がマイノリティならば、恥ずかしいと思う気持ちもわからないでもない。しかし、仮性包茎は日本人男性のマジョリティであるといわれる。神奈川県でおこなわれた医学調査では、仮性包茎が約六三%、真性包茎が約二%、露茎が約三五%で、仮性包茎がもっとも多かった。泌尿器科などの患者を対象とした調査であり、この調査結果を日本人男性全体のそれに置きかえることはできないが、そのほかの調査結果もふまえると、さほど隔たった数値とも思われない。
 マジョリティなのに恥ずかしい。この日本人男性が持つ恥の感覚をヨーロッパ人に説明しても理解されないことが多い。真性包茎はともかく、仮性包茎は病気ではないからである。その証拠に海外の医学辞典に仮性包茎に相当する用語は載っていない。載っているのはphimosis、つまり真性包茎に相当する状態だけである。
 アメリカ人なら少しは理解してくれるかもしれない。白人男性の八〇%から九〇%が包皮切除手術を受けているという推計がある。おそらく包茎者はマイノリティである。彼らのほとんどは、生まれた病院で退院前に一律に手術を受ける。
 ただし、「少しは理解してくれるかも」であって「十分理解してくれる」ではないのは、新生児への包皮切除手術に疑問を投げかける見解も根づよいからである。包皮を切除された新生児一〇〇名を対象とした追跡調査では、約半数に外尿道口潰瘍などのトラブルがあったことが明らかになった。また、新生児期に身体にメスを入れられることは精神的なトラウマになるという指摘、包皮切除は不要な手術であり、赤ん坊にほどこすのは倫理的に問題だという指摘もある。短い包皮を気にする男性は、包皮再生グッズを購入し、わざわざ包皮を伸ばそうとしている。子どもへの包皮切除に反対する団体が複数あり、ウェブサイトで啓蒙活動をしたり、街頭でデモをおこなったりしている。こうしたことが積みかさなってか、アメリカやカナダでの新生児の包皮切除は現在、減少傾向にある。
 割礼はユダヤ人やイスラム教徒のあいだで何世紀にもわたって受け継がれている宗教的儀礼だが、アメリカやイギリスでは若い世代が我が子に割礼を受けさせない選択をしつつある。アイスランドでは、宗教的割礼を含む、医療的理由によらない子どもへの包皮切除を禁じる法案が二〇一八年に議会に提出された。
 包皮切除の是非をめぐる論争はいまだ継続中であり、宗教的割礼の是非についても着地点は見えていない。しかし、ヨーロッパでは大人も子どもも病気でないかぎり包皮切除をする必要はないというコンセンサスがすでにあり、アメリカでも形成されつつある。そうした潮流のなかで、病気でもマイノリティでもなく、まして宗教的な理由もないのに、仮性包茎を恥ずかしがる日本人男性の感覚はかなり特殊である。

未開拓な「恥の感覚」の歴史
 当事者にとっては切実だが部外者にとっては理解しがたい、この恥の感覚。本書はこれにフォーカスする。仮性包茎にたいする日本人男性の恥の感覚は、歴史的にどのようにして形成されたのだろうか。これが本書の問いである。
この問いは、包茎手術ブームを牽引したといわれる美容整形医の高須克弥の証言によって部分的には解明されている。二〇〇七年のインタビューで高須は次のように語っている。

僕が包茎ビジネスを始めるまでは日本人は包茎に興味がなかった。僕、ドイツに留学してたこともあってユダヤ人の友人が多いんだけど、みんな割礼してるのね。ユダヤ教徒もキリスト教徒も。ってことは、日本人は割礼してないわけだから、日本人口の半分、5千万人が割礼すれば、これはビッグマーケットになると思ってね。雑誌の記事で女のコに「包茎の男って不潔で早くてダサい!」「包茎治さなきゃ、私たちは相手にしないよ!」って言わせて土壌を作ったんですよ。昭和55年当時、手術代金が15万円でね。[……]まるで「義務教育を受けてなければ国民ではない」みたいなね。そういった常識を捏造できたのも幸せだなあって(笑)。

 この証言で明らかになっているのは、包茎手術ブームが美容整形医によって意図的に作られた「ビジネス」であったということである。事実、一九八〇・九〇年代の青年誌や中高年向けの雑誌には美容整形医が手術をすすめる記事や広告があふれていた。また、「女のコ」による包茎批判を手術のプロモーションに用いたとの高須の証言は、当時の資料と合致する。この証言からは、美容整形医が自己のビジネスのために包茎を恥ずかしいものにし、一般の男たちを手術へと向かわせた、というストーリーを描くことができる。
 だが、高須の証言によって解明されているのは包茎の歴史の一部分にとどまるうえ、かならずしも正確ではない。たとえば、「僕が包茎ビジネスを始めるまでは日本人は包茎に興味がなかった」というのはいい過ぎである。のちに述べるが、病気治療ではない、ペニスの美容整形を目的の一部とするような包茎手術はすでに一八八〇年代に存在した。
 そして、一九八〇年以降の「女のコ」の包茎批判だけが包茎を恥ずかしいものにしたわけではない。これものちに述べるが、男たちが包茎男性を差別することは多々あった。そもそも、「女のコ」の辛辣な包茎批判を雑誌にあえて載せたのは雑誌編集部の男たちだった。
 だいたい、一九八〇年に高須やそのほかの美容整形医がいっせいにキャンペーンをはりだしたからといって、包茎を恥ずかしいと思う価値観がすぐに広まるものだろうか。そこには広まるだけの土壌がすでにあったから、手術がブームになったのではないだろうか。
そこで、一個人の証言に頼ることなく、歴史的な資料にもとづいて、仮性包茎にたいする恥の感覚が発生した経緯を探りたい。
 ただし、「歴史的にどのようにして恥の感覚が形成されたのか」というだけでは漠然としすぎて問いとして扱いにくい。手はじめに、以下の仮説が肯定されるか、否定されるかを検証しながら話を進めることとしたい。

仮説① 仮性包茎にたいする恥の感覚は、美容整形医によって集客のために捏造された。
仮説② 仮性包茎という概念は、美容整形医によって集客のために捏造された。

 仮説①の背景について説明する。高須の証言からは、美容整形医が自己のビジネスのために包茎を恥ずかしいものにしたというストーリーを描くことができる。そこで、彼らによって恥の観念が意図的に作り出された(捏造された)のだと考え、この仮説を設定した。
 仮説②は、仮性包茎は病気ではないのに手術の対象となっている現状に照らして設定した。真性包茎は、尿が出にくい、勃起時に痛みがある、炎症を繰りかえすなどのはっきりとした不具合をともなう傾向がある。それにたいして、仮性包茎の場合、清潔にしさえすれば、身体的なトラブルはほぼない。しかし、「仮性包茎」という名称は「包茎」の語を含むために、名ざされた状態に「病気感」を付与する。仮性包茎と自己診断した人びとは病院へと向かうかもしれない。この概念についても、美容整形医が自己のビジネスのために作り出したというストーリーを描くことができる。そこで、仮説②を設定した。
 仮性包茎の歴史は、十分に解明されていない。過去に日本で包茎がどのような扱いを受けてきたのかをごく簡単に論じた論考はあるし、現代日本人の包茎観をまとめた研究もある。むやみに包茎手術をすることの危険性を医師が解説した本もあって、多くの男性を無用の心配から救ってきた。だが、病気でもマイノリティでもない仮性包茎がいつ、どのようにして恥になったのか、という疑問に答える歴史研究は見当たらない。
 本書はその空白を埋めようとするものである。いったいこんな研究をしてなんになるのか、という疑問を持つ読者もいるかもしれない。目的は二つある。
ひとつは、男性が自分の身体について自己肯定感を持てるようになる材料を提供することである。亀頭が露出した大きなペニスにあこがれる男性は多いが、それは本心なのだろうか。「ありのままの自分でよい」。そんな自己肯定感を持つことができれば、それがベストなのではないだろうか。
 ゆるぎない自己肯定感を持つためにはどうしたらよいか。包茎は恥ずかしいとかカッコ悪いという価値観がどこから来て、どのようなロジックのもとに成立しているのかを知るのはひとつの方法である。そのことで、いたずらに包茎を恥ずかしいものに仕立て上げた人びとの手の内を理解できれば、あるいは自分の不安のよって立つところを分析できれば、むやみに自分の身体を卑下する必要もなくなる。
 もうひとつ、男性間の支配関係がジェンダー不平等にどのように関わるのか、その一般理論を抽出する、という目的もある。
 男性間の支配関係とは、ここでは、医師と患者(潜在的な患者も含む)のあいだの関係性をいう。包茎ビジネスとは、ありていにいえば、男の美容整形医らが男の客を甘言でたぶらかして成立するものである。知識と権威という「財」が非対称に配分された関係性において、片方が片方を意のままに動かし、動かされる時、そこには支配―被支配関係があるといえる。
 しかし、男性間の支配関係を描き出すだけでは不十分だ。近年、「男性とはこういうもの」と、男性性の特質や男性が置かれた境遇ばかりを描き出し、それがジェンダー不平等にどう関与するのかを問わない男性学にたいして批判の声が出ている。そのような分析からは、ジェンダー不平等を温存しつつの男性解放(男性だけのひとり勝ち)という処方箋しか出てこないからである。
 「男性間の支配関係はこうなっている」という説明に終わる分析もまた、同じ批判を浴びることだろう。あらゆるところにジェンダーが偏在する社会で、とりわけ包茎という性がかかわる事象をめぐって、男性間の支配関係の影響が男性間にのみとどまるとは考えにくい。これがジェンダー不平等に影響を与えるのか与えないのか、与えるとすればどのように影響を与えるのかを考察したい。
 

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