くたばれ、本能。ようこそ、連帯。

第1回 くたばれ、本能――『BEASTARS』論(1)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
第1回は、「動物版青春ヒューマンドラマ」を謳う板垣巴留『BEASTARS』(2016〜2020年連載/秋田書店)。第42回講談社漫画賞・少年部門賞、第11回マンガ大賞を受賞し、現在TVアニメの第2期が放送中の本作は、「本能」というテーマをどのように描き終えたのでしょうか。

※この記事には漫画『BEASTARS』の結末に関するネタバレが含まれます。

●正論と本能?
「くたばれ、正論」。今年の成人式に合わせて、エナジードリンクブランドの「RED BULL」が掲出した若者向け広告のキャッチコピーが目に留まった。大きな角を備えた雄牛の写真の上に、数行の散文が載っている。
 以下に全文を引用する。

この世の行き過ぎた正しさが、君の美しいカドを丸く削ろうとする。正しすぎることからは、何も生まれない。常識を積み重ねても、所詮それは常識以外の何物でもないから。自分の感受性を守れ。自分の衝動を守れ。自分の中のバカを守れ。本能が面白いと感じる方へ動くんだ。まっすぐ、愚直に、大きくいこう。【1】

 なんだかなあ、と思った。この文章における「正論」概念は、どうせポリティカル・コレクトネスや公教育を曖昧に指し示して当て擦りをするために持ち出されているのだろうし、「自分の感受性を守れ」という一文は、茨木のり子の文脈から身勝手にスクラップされているように見える。はっきり言って「ダサい」広告であり、誰もが抱き得る反抗心をおとなしく慰撫してやろうとする、よくあるタイプの言説だ。
 ただ、筆者がこの広告をなんとなく看過できなかったのは、ここで「正論」に対置されているのが「本能」であり、そこに「感受性」「衝動」「バカ」が併置されていたからであった。
 この「本能」への信頼は、一体どこから来るのだろうか? 生まれながらに備わった「本能」に従って世に打って出よ、というのは、新成人に対するメッセージとしてあまりにも残酷ではないか。
「本能」とは、日本国語大辞典によれば「①そのものが本来備えている性質・能力」「②動物が経験や学習なしに外界の変化に対して行なう、先天的に備わった一定の行動様式【2】」を指す語彙であり、本質主義に基づいて語られる虚構である。
 本質主義とは、現実が言説によって生成されていると考える構築主義に対置される立場であり、事物について「客観的」に確認しうる不変の「本質」があると想定する考え方だ。構築主義の立場――筆者はこちらをとる――から言えば、事物の捉え方は常に社会によって生み出された言説の影響下にあり、言説の変容に伴って事物の在り方も千変万化する(これは事物の物質性を否定するものではなく、事物の捉え方が事物の物質性をも規定していることを意味する)。すなわち、人が何かを面白いと感じるのであれば、それは良くも悪くも自らが置かれた社会環境や経験の中で育ててきた一種の知性によって生じる気分であるはずだが、「本能」なる言葉はその構築性を華麗にシカトし、「ずらし」の余地すら与えない(「まっすぐ」が強調される、その恐ろしいこと!)。文体は希望に満ちているように見えるのに、絶え間なく揺れ、変化する可能性への希望は見えてこないのだ。
 ここに連なる「感受性」「衝動」「バカ」に与えられた肯定は、先が見えない状況に対する一種の開き直りを示しているように思われる。例えば映画『パラサイト 半地下の家族』では、格差社会に翻弄されて先の見えない暮らしに陥った主人公一家が「計画」に失敗し続ける中で、最終的に「計画」性のなさを開き直るようになっていく過程が描かれていた。この「計画」の失敗からくる「無計画」――ここでは「衝動」と言い換えても問題はないだろう――の肯定は、最後の惨劇を生み出す大きな要因として描かれる。
 そして「正論」「常識」という「公」の概念を敵視する一方、この二つすら曖昧になっている通り、何が自らの苦境を生み出した敵であるのかを指す言葉は極めて貧しい。同時に「まっすぐ、愚直に、大きくいこう」という結論が指すものも、勇壮な表現に反して具体性を全く欠いている。これではどんなことをしても、あるいは何もしなくとも、「全ては「本能」であるから正しいのだ」と免責できてしまうのではないか。さきの広告はすでに起こされた「行動」の背景にある「動機」を肯定する文章ではなく、「行動」を起こせない状況における「行動」未満の「気持ち」を肯定する文章である、とも読みとり得るだろう(同様の姿勢は、近年若年層を中心にヒットしたAdoの楽曲「うっせぇわ」にも見られる)。
 すなわちREDBULLのメッセージは、反発する「気持ちだけ」を慰撫する内容であるがゆえに強烈な現状追認になっており、残念ながら「常識」の補強に向かうのである。自己に生まれつき備わっている(と思い込んでいる)何かを過剰に評価するこの文章は、文体の勇ましさを隠れ蓑にして生のオルタナティブを葬り去る呪詛なのだ。
 一方で、「本能」言説がおそらく社会に求められて出てきたであろうことを、筆者は笑えない。
 世の中は絶望ばかりでよくならないけれど、それでもあなたは何かを成し遂げる可能性を秘めている、なぜならあなたは最初からすばらしいものを持っているから。あなたを救わなかった世間の「正しさ」は間違いであり、真に従うべきはあなただけの「本能」である……。出口も見えずに速度ばかりが増すネオリベラリズムと自己責任論の渦中にあって、この甘言を拒否するのは、簡単ではないだろう。何かを成し遂げることへの強迫観念、自分を救ってくれない「正しさ」への失望、何をしてよいか、あるいは何が敵なのかわからない状況への不安と苛立ちがないまぜになった結果生まれたのが、REDBULLの広告が充たそうとした「本能」への期待だったのではないか。

●『BEASTARS』と「本能」
 この広告を見ながら、板垣巴留『BEASTARS』(秋田書店)を思い出した。一見繋がらないこの漫画作品とRED BULLの広告が筆者の中でふと連結したのは、「本能」というワードのせいだ。
『BEASTARS』は、擬人化された動物たち(と表現することを著者が歓迎するかはわからないが、筆者の目にはそのように見える動物たち)が暮らす世界を舞台に、ハイイロオオカミの少年・レゴシの冒険、友情、恋愛を描く「動物版青春ヒューマンドラマ」(単行本裏より引用)である。2021年1月に最終巻となる22巻が発売され、大団円を迎えたばかりだ。
 あらすじとしては、肉食獣でありながら草食獣であるウサギのハルに恋したレゴシが、たくさんの出会いや衝突を経て社会のあり方を変えていく物語、とひとまず要約できるだろう。レゴシは肉食獣と草食獣との間に横たわる巨大な断絶にぶつかり続け、そのたびに試行錯誤しながら他者に手を伸ばしていく。凶暴な身体に繊細で優しい精神を宿したレゴシの奔走が社会の分断を架橋していく、魅力的なビルディングス・ロマンである。
 だが一方で、ここにも看過しがたい「本能」をめぐる言説が渦巻いている……『BEASTARS』世界の土台には、いくつもの本質主義的な二元論が埋め込まれているからだ。具体的には、肉食/草食、オス/メス、陸生/水生であり、それら全てが「本能」に貫かれている。ストーリーやキャラクター描写においていかに魅力的な面があろうとも、どうしても筆者は、この世界の根本的な苦しさを見つめずにはいられないのである。
 以下、『BEASTARS』の世界に分け入り、「本能」に代表される本質主義を鍵として、作品のあり方を読み解いてみたい。