くたばれ、本能。ようこそ、連帯。

第1回 くたばれ、本能――『BEASTARS』論(1)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
第1回は、「動物版青春ヒューマンドラマ」を謳う板垣巴留『BEASTARS』(2016〜2020年連載/秋田書店)。第42回講談社漫画賞・少年部門賞、第11回マンガ大賞を受賞し、現在TVアニメの第2期が放送中の本作は、「本能」というテーマをどのように描き終えたのでしょうか。

●レゴシが生きる世界の形
 まずは主人公・レゴシを取り巻く社会環境に目を向けてみよう。
 レゴシの通う名門高校・チェリートン学園は肉食草食共学だ。授業も部活(レゴシは演劇部に所属して、照明係を担当している)も種族の分け隔てなく行われている。しかし「万が一」のため、寮は同じ種族同士で同室にされており、レゴシの場合はイヌ科の友人たちと同室だ。学校内では身体の大きさや種族の違いに応じてマナーがあり、例えばネズミの生徒は踏まれないように壁際を歩く、肉食獣の生徒は人前で牙を見せないなど、さまざまな工夫に基づいて共同生活が運営されていた。
 そして重要なのは、食事として肉が出されることは決してないという点だ。これは学園だけの方針ではなく、社会の建前として肉食が禁じられている。街に出たとしても、飲食店で肉が供されることはなく、肉食獣は乳製品や卵でタンパク質を摂取する。
 一方で繁華街の裏路地にある「裏市」では、当たり前のように草食獣の遺体/生体が売買されており、大人の間では暗黙の了解となっていた。レゴシ自身、部活仲間のハクトウワシ・アオバから「肉食なら大人になれば必ず利用することになる【3】」として、その場所を教えられている。すなわち、社会全体が肉食=「本能」を隠蔽することで、ぎりぎりの「共生」が成立しているのだ。
 そのような世界であるので、あらゆる場所に異種族がすれ違う機会がありながら、異種族間恋愛、特に肉食獣―草食獣間の恋愛は忌避されていた。異種族間の恋愛はそもそもあり得ないものとして差別されるか、あくまでも若気の至りであって長続きしない「青春のはしか」的に扱われる(この描写は現実社会における同性愛の扱いを彷彿とさせる)。そんなの「本能」が許さないはずだとみな考えているし、それが「事実」であることを生理的な部分で察知しているのだ。愛があるといくら口で言ったって、肉食獣は草食獣を食べたいと願い、実際に裏市へ通っているわけだし、草食獣は理性ではどうにもならない部分で肉食獣に恐怖しているはずなんだから……。「本能」をひた隠しにした「共生」の矛盾は、社会の閉塞感としてそのまま表出していた。
 この不協和音をなだめているのが、「ビースター」というアイコンだ。
 ビースターには二つの地位がある。学園ごとに一人選ばれる「学校全体の統率を担いこの世界の差別や恐怖を超越する 英雄的地位【4】」=「青獣ビースター」と、青獣ビースターからさらに一人が選ばれる「世界を牽引する【5】」存在=「壮獣ビースター」だ。レゴシがチェリートン学園の次期ビースターと噂されるアカシカ・ルイの姿を見て「彼がもし正義なら… 俺は…【6】」とひとりごちているように、ビースターとはひとりの獣によって体現される、「本能」を超えた社会正義なのだった。

●「本能」の超克と本質主義
 前節を踏まえ、ストーリーの構成を確認していこう。
「本能」を超えること。それは物語全体の軸であり、肉食獣と草食獣の間に築かれる絆が、同作最大のテーマとなっている。
 第一にレゴシを突き動かしているのは、初恋の相手であるハルとの「愛の遂行」である。単純な「愛」ではなく、「愛の“遂行”」である点が肝要だ。レゴシの悩みの根幹は「どうすればハルに振り向いてもらえるか」以上に、「どうすれば二人の愛が誠実に維持される未来を創出できるのか」に集約されていくからである。
 そしてハルとの「愛の遂行」がレゴシの第一の軸だとすれば、第二の軸となるのがルイとの友情関係だ。ルイはレゴシの所属する演劇部の部長にして学園の権力者であり、ホーンズ財閥の御曹司でもあり、さらにハルとも肉体関係がある。一見全てがうまくいっているかのように見えるルイだが、その出自は裏市で売られていた「生き餌」であり、ルイはまだ当時の悪夢に苛まれていた。ルイとレゴシは後述する事件を通じて決定的に繋がり、お互いの「強さ」に大きな影響を受けて、無二の友人となっていく。ルイとレゴシの関係が、最終的に二人の間でのみ「ビースターズ」――つまり、現状の社会正義である「ビースター」のあり方に対する密かな抵抗と刷新――として確認されるのは、極めて重要なポイントだ。
 このように草食獣と真摯な関係を築こうとするレゴシに障壁として立ちはだかるのが、前節で説明したような複数の位相における差別であり、その論拠として本質的に存在している、、、、、、、、、、、、、、、本能、、」である。
 差別の論拠としての「本能」の実在は、『BEASTARS』世界の土台が持つ根本的な問題点であり、先に批判しておく必要がある。
 同作が現代社会に公表された作品である以上、現実の差別と比較しながら読解する姿勢を避けるのは不可能であるし、作者の側も少なからず現実に生じている差別を参照しながら描いているはずである。
 実際、現実と地続きとなるシーンは多い。先に触れた異種族間恋愛が現実社会の同性愛に類似した扱いを受けているように読み取れるシーンや、「海洋生物がいわゆる外国人の扱い【7】」であると明言された上で、陸で就労しているゴマフアザラシ・サグワンが実質的な移民表象として登場するシーンもある(サグワンは作者がスペイン出張に行った際に感じた「異国情緒の面白さを描きたい【8】」という意図に基づいて描かれている)。また、オス肉食獣ばかりが働く大企業で働くメスのメリノ種ヒツジ・セブンの生活を描く回【9】では、肉食獣と対等に立ちたいというプライドのためにあえて「草食獣専用車両」を避けたり、取引先の接待でオスの肉食獣からハラスメントを受けるシーンが登場する。作中での「メス草食獣」が置かれた立場は、現実の女性が直面する困難を明確に反映していると言えるだろう。
 このような描写を重ねた上で、『BEASTARS』が「本能」を解体する物語ではなく、「本能」という消せない関門を「強くなる」ことで超えていく物語である点が、どうしても筆者には危うく思われるのだ。
 同作に「本能」として出てくる事象がたとえ生物学に裏付けされた「事実」であったとしても、それは単に生物学の視点から構築された言説であって、生物そのものの本質ではない。現実社会で本質主義という虚構に基づく差別――例えば同性愛を「反自然」として退けるホモフォビアや、「生物学的性別」を絶対視するトランス排除言説や、「遺伝子」や「血統」を重んじる排外主義的ナショナリズムを思い出してほしい――が横行している以上、同作を素朴に読み、素朴に喜ぶわけにはいかないように思う。現実とフィクションは接続されており、意図しない形で伝達される可能性を常に帯びている。作品世界で「本能」が疑われずに「実在」することは、たとえ動物を模したキャラクターに関する要素であろうと、現実の差別を助長する危険性を帯びる。
 実際、作中の社会では同性愛が完全にアンダーグラウンドのものとして扱われており【10】、一対一の異性愛が著しく自然化されている。「男らしさ」「女らしさ」に関する言説が何度も無批判に登場するのも無視できない。これらの表現は人間社会から素朴に輸入された感覚であるように読み取れる。同作が「差別に根拠が実在したらどうなるのか」という思考実験に基づいて設計されていると考えるにしても、上記のような不用意さを見るに、「ファンタジーとしての差別」を描くための土台が不安定であると評価せざるを得ない。
 また作中、異種族間に生まれた「ハーフ」(この語彙の使用にはさまざまな問題点が含まれるが、ひとまず本稿では原作表記を引用し、鉤括弧つきで用いる)のキャラクターが、「純血」のキャラクターと根本的に異なる形質を持つ者として描写される場面もあり、注意が必要である(具体的には味覚の欠如や、弾丸が二発なければ死なないとされている点など)。複数のルーツを持つ者に対する差別が存在する現実社会において「ハーフ」という語彙を利用している以上、これは素直に受け止めてよい表象ではない。
 もう一度念を押すが、本質主義に対する疑いをほとんど持たない表現について、筆者は警戒すべきであると考える。

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