くたばれ、本能。ようこそ、連帯。

第1回 くたばれ、本能――『BEASTARS』論(1)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
第1回は、「動物版青春ヒューマンドラマ」を謳う板垣巴留『BEASTARS』(2016〜2020年連載/秋田書店)。第42回講談社漫画賞・少年部門賞、第11回マンガ大賞を受賞し、現在TVアニメの第2期が放送中の本作は、「本能」というテーマをどのように描き終えたのでしょうか。

●不気味なまでの人間の不在
 上記の批判に対し、『BEASTARS』のキャラクターは動物であるから「本能」に取り憑かれているのは当たり前だ、と考える人もいるかもしれない。だがそれは人間からの一方的な視線に過ぎないだろう。人間も動物もみな等しくこの世のアクターであり、世界はアクターの数だけ、認知の数だけ存在している(この考え方を多自然主義と言う)。
 つまり人間の目から「本能」と位置付けられてきた「動物」の行動は、アクター自身の持つ世界における「知性」であると捉えられる。他者の世界が自分の世界と全く違う仕組みで動いている巨大な可能性を無視して「本能」と「動物」を密着させるのは、傲慢な人間中心主義だろう。
『BEASTARS』において「ヒト」は存在せず、世界の歴史からも消去されている。だがその不在は、かえって人間中心主義を不気味に際立たせている。
 例えば現実社会におけるイヌは、オオカミから人間の手で「品種改良」されたと考えられているが、作中世界におけるイヌは、かつて起きた肉食獣(戦前の名称は「生命動物」)と草食獣(戦前の名称は「自然動物」)との大戦争の反省から、知能の高い生物を作り出す意図で生み出された種族である、と説明されている。ここでいう「知能」とは、誰から見た「知能」なのだろうか? 
 あるいは「本能」を解放できるアトラクション施設として作中に登場する施設「ビーストライク」では、イヌ科の「本能」を発散させる遊びとして、ボールのキャッチ&リリース(アトラクション名は「ギブ・アンド・テイク」/成功すると過剰な褒め言葉が流れる)が用意されている。これは明らかに馴致の過程で生じる興奮であって、「本能」として説明しうるとはどうにも思えない。同じイヌ科であっても、馴致の歴史を経ていないであろうオオカミのレゴシやフェネックのボスがこの遊びに夢中になる理由は不明瞭である。
『BEASTARS』は、人間が動物を見る視線そのものの歴史に意識が向いていない。それを「不勉強だ」と責めたいのではない。単純にヒト不在の世界を構築する以上、ヒトの視線の不在を作品世界の前提として丁寧に織り込むことは、物語の強度を上げるために必要な作業であったはずだが、それが不十分であると指摘したいのである。『BEASTARS』を読むに当たり、これらの世界の基盤に関する重大な問題を無視し続けるのは、それなりに困難なのだ。
(つづく)

【注1】https://twitter.com/redbulljapan/status/1348389090077646850 (最終アクセス2021年1月15日1時)
【注2】https://kotobank.jp/word/本能-135224 (最終アクセス3月2日22時)
【注3】『BEASTARS』3巻、107ページ
【注4】『BEASTARS』1巻、176ページ
【注5】『BEASTARS』7巻、13ページ
【注6】『BEASTARS』1巻、181ページ
【注7】『BEASTARS』14巻、196ページ
【注8】『BEASTARS』14巻、196ページ
【注9】『BEASTARS』第100話、12巻収録
【注10】レゴシが壮獣ビースターであるウマのヤフヤに請われて潜入調査を行った上流階級向け極秘パーティー「仮面夜行会」で、ジャッカルのメスとシマウマのメスが性行為に及ぶシーンがある。レゴシはそれを見て「無法地帯」と称し、ヤフヤはパーティー全体を通して「道徳も倫理も歪ん」でいると評する。(『BEASTARS』第127話、15巻収録)

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