「愛をばらまけ」、その後

第1回 愛とは、なんだろう?

路上生活者や日雇い労働者が多く集まる大阪・西成。その片隅に、ひなびたラーメン屋を思わせる外観の教会がある。                                          「愛があふれる」の意味を持つこの教会を設立したのは、50を過ぎて学校の先生から牧師へ転身した西田好子さん(70)。コテコテの関西弁でズケズケとものを言い、よく笑い、すぐに泣く。「聖職者」イメージからかけ離れた、けったいで、どうにも憎めない西田牧師のもとには、20人のワケあり信徒たちが集う。いずれも家族に見放され、社会とのつながりを断たれ、アオカン(野宿)経験のある男性たち。                                           ここで繰り広げられる「魂のぶつかり合い」を余すことなく描いたのが、昨年11月末に刊行された『愛をばらまけ』。その著者で読売新聞大阪本社の現役記者が、取材を通して考えたことを3回にわけてお届けします。ぜひ、お読みください。

 1年前のいまごろは、毎日のように取材でメダデ教会に通っていた。たびたび脱線し、いつしか絶叫に変わる西田の説教(だいたいいつも3時間!)に耳を傾けた。激安で有名な「スーパー玉出」で食材をそろえた鍋を一緒につつき、信徒たちの、ここでは書けないような体験談に驚いていた。

 持ち場の変更もあって、昨秋以降、教会にはほとんど顔を出せていない。それでも西田からは、毎日5回、10回と電話がかかってくる。すべてに出ていると生活に支障が出るので、留守電に入れてもらうルールにした。以下はある朝のメッセージの一部だ。
 
 7:38〈朝早うからすんませんな、今朝もまた大変なことが起こりましてね――〉
 7:41〈それで私、カチンときましてね。信徒にバチーンと言うたったんや――〉
 7:44〈これで最後にしますわな。私が思う信仰っちゅうのはな――〉
 
 着信が3分おきなのは、録音時間が3分しかないためだ。それにしても、ほんまに、ようしゃべること、ありますね。

「そら、信徒たちのことをちゃんと知ってほしいからですやん。約束しましたやろ。本一冊だけ出して、それで終わりと違うで。メダデの信徒たちは、これからも生きていく。その生きた証しをちゃんと残すのは、あなたの仕事やで」

 西田の電話のほとんどは、信徒に関するものだ。喧嘩する。トンコ(失踪)する。酒にまた手を出す。規律正しい教会を目指してはいるが、トラブルは毎日のように起こる。だが、西田の一番の心配の種は、信徒たちに静かにしのび寄る「死」のことだ。

 昨年10月のこと。留守電を再生すると、西田が号泣し、わめいていた。信徒の一人のコジマ(69)が小細胞肺がんと診断されたのだ。かなり進行していて、治る見込みはほとんどないらしい。

「なんでこんなええ人間が死ななあかんねん!おかしいやろ。生まれ変わって真面目に生きとる人間が、なんでこんな目にあわんとあかんのや!神はなにしとるねん。ボーッと寝とるんですか。神なら奇跡起こせや、奇跡」

 コジマからは、何度かその半生を聞かせてもらったことがある。

「酒の飲み過ぎで頭がおかしくなってたんや。郵便局に勤めてたんやけど、窓口でも飲んでてな。いっつも二日酔いで、飲酒運転もあって。車の後ろに荷物や金積んで、曲がらなあかん道を真っすぐドーンといってしもた。20年勤めたけど、それで全部パーになったんですわ」

 コジマは重度のアルコール依存症だった。勤務先の郵便局をクビになり、借金も背負った。ある日家に帰ると妻と娘はいなかった。なんとか関係を修復しようとしたが、まだ中学生だった娘に、吐き捨てるように言われた。

「あんたなんか父親と違うわ」

 憎しみに満ちた娘の表情を、今も夢にみるほど鮮明に覚えているという。それからは、ますます酒に逃げ、生活がいっそう荒んだ。西成に来て借りたアパートの一室は、次第に空き缶で埋まり、排泄物とゴキブリにまみれた。酒を求めてふらふらと外に出ると、すれ違う人がみな、その異臭に振り返る。衛生的に問題があると言われてスーパーを「出禁」になり、酒は自販機で買うようになった。西田と初めて出会ったのは、酒以外に何も口にしない日が10日も続いた頃だった。

「あんた、めちゃめちゃ臭いな。風呂入り。ゼリー食えるか?」

 西田は初対面の男でも、どんどん話しかける。往々にして「ほっといてくれ」「神に祈って何になるねん」と拒絶されるが、全くめげない。あれこれ世話を焼き、必要なら依存症の専門病院にも通わせる。実際に、そうして心を閉ざしていた男たちが、教会に通い始め、立ち直るきっかけをつかんでいる。コジマもその一人だ。西田と出会ってから6年、今に至るまで一滴の酒も飲んでいない。

 余命が長くないことを知らされたコジマは、西田に思いを打ち明けた。長らく連絡をとっていなかった妻子に会って謝りたい。立ち直ったと伝えたい。できることなら和解したい。西田は俄然、張り切った。

 だが、手紙を書いても返事はない。電話をかけても留守電で、しばらくすると着信拒否になった。

「こうなったら家に行くで!」

 西田とコジマは、妻子の住むアパートを訪ねた。意を決し、インターホンを押す。室内で、息を殺しているような気配がある。しばらく待った。だが結局、姿を一目見ることもかなわなかった。

「しゃあないわ。ずっと家庭を顧みなかったから」

 そう言って、コジマは寂しそうに笑った。

撮影:枡田直也 ⓒThe Yomiuri Shimbun

 

 散々、家族に迷惑をかけておいて、今さら許してくれというのは、虫が良すぎるのかもしれない。ほかの信徒にしてもそうだ。妻に暴力をふるって家庭を壊した信徒。過去に殺人を犯した元暴力団員の信徒。性犯罪で女性を傷つけた信徒もいる。たとえ信仰を持ち、更生したからといって、すべてが免罪されることはない。

 それでも西田は、どんな罪深い過去があろうとも、あれこれ考える前に手をさしのべる。過去ではなく今を生きろと尻をたたく。そして、本書のタイトルにもなった言葉を、いつも叫んでいる。「愛をばらまけ」と。

 西田の言動は、お節介で、厚かましく、独りよがりなのかもしれない。読み手にも賛否両論あるだろう。ただ、著者として一つだけ断言できることがある。あなたはこの本を読んで、必ずや考えることになる。

 自分には愛があるだろうか。

 そもそも愛とはなんだろうか。
 

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