「愛をばらまけ」、その後

第2回 「憐れみ」と「厳しさ」

路上生活者や日雇い労働者が多く集まる大阪・西成。その片隅に、ひなびたラーメン屋を思わせる外観の教会がある。                                          「愛があふれる」の意味を持つこの教会を設立したのは、50を過ぎて学校の先生から牧師へ転身した西田好子さん(70)。コテコテの関西弁でズケズケとものを言い、よく笑い、すぐに泣く。「聖職者」イメージからかけ離れた、けったいで、どうにも憎めない西田牧師のもとには、20人のワケあり信徒たちが集う。いずれも家族に見放され、社会とのつながりを断たれ、アオカン(野宿)経験のある男性たち。                                           ここで繰り広げられる「魂のぶつかり合い」を余すことなく描いたのが、昨年11月末に刊行された『愛をばらまけ』。その著者で読売新聞大阪本社の現役記者が、取材を通して考えたことを3回にわけてお届けします。ぜひ、お読みください。

 男の声が法廷に響き渡った。

「メダデ教会で生まれ変わりたいんです」

 2019年11月14日、大阪地裁の第331号法廷。更生を誓った男は、裁判官に実刑判決を言い渡された後、見守る西田や信徒たちに穏やかな笑みを残し、刑務所に入った。

 その男――ヒデキ(47)は、くせ者ぞろいのメダデ教会の信徒たちのなかでも、群を抜くトラブルメーカーだった。18歳でシンナーにはまりこんで精神に異常をきたし、刑務所と精神科病院と路上で人生の大半を過ごしてきた。

 19年の春に西田と出会い、教会に通うようになった。信徒たちと同じアパートで寝食をともにし、いったんは落ち着きを取り戻したが、ほどなく酒浸りになり、路上に舞い戻った。得体の知れない男たちとつるみ始め、シンナーを吸っているところを警察官に見つかって逮捕・起訴され、懲役1年4月の実刑判決を受けた。

 そんなヒデキに西田は一貫して手を差し伸べつづけた。罵詈雑言を浴びせられても、裏切られても声をかけつづけた。ほかの信徒たちもその熱意に引っ張られるようにして、ヒデキを切り捨てることはせず、関わりつづけた。そのありがたさに気づいたのだろう。ヒデキの態度は逮捕されて以降、明らかに変わり始め、面会に訪れた西田らに謝罪と感謝の思いを口にした。刑務所から教会に出した手紙には「早く教会で奉仕がしたいです」「神様は俺みたいな人間でも許してくれるかな?」と、再起に向けた前向きな言葉を綴った。

 ヒデキの変化に、私は、がらにもなく感動した。奇跡だと思った。だから本書の中でも、とりわけ多くのページを割いた。人は変われるのだ、と。

 甘かった。

 今年2月12日に刑期を終えて出所したヒデキは、西成に戻ったその夜に酒を飲んだ。路上で泥酔して前後不覚になり、さっそく警察に保護された。西田は頭を下げて連れて帰ったが、一度アルコールが入ったヒデキは制御不能だ。目を離すとまた路上に繰り出し、男たちと酒盛りして酔いつぶれ、しばらくすると警察から連絡が来る。刑務所に戻るのは時間の問題かもしれない。

 病気なのだとは思う。自らの意思で制御できるような状態でないこともわかっている。それでも期待が大きかったぶん、西田はひどく落ち込んでいた。

「もうお手上げです。ザルですわ、ザル。なんぼこっちが愛をばらまいてもな、全部、ザーザーと漏れていくねん。あの子の前では、愛はあまりに無力や」

撮影:宇那木健一 ⓒThe Yomiuri Shimbun

 

 ある夜、西田に電話をかけると、近くにいたらしいヒデキが出た。

「記者さんですか? 俺はもう酒は飲みませんよ。きょうが最後です。信じてくださいよ。めっちゃ反省しとるんです。このままではアカンと俺も思っとるんですよ!」

 呂律は回っておらず、同じ言葉を何度も繰り返している。聞いているうちに居たたまれなくなり、西田に電話をかわるよう告げた。するとヒデキは、やけくそのように叫んだ。

「俺は生まれ変わりたいんや!」

 私は昨年秋から裁判所の担当になった。この半年、世間的にはほとんど注目されない刑事裁判を集中的に傍聴してきた。ギャンブルの軍資金欲しさに盗みをしたとか、酔っ払ってカッとなり人を殴ったとか、コロナの給付金が入ったのをいいことに覚醒剤を打ったとかいった裁判だ。大半は再犯者で、小さな法廷で流れ作業のように裁かれていく。傍聴人はほとんどいない。

 それでも、被告人の言葉に耳を澄ませば、彼らなりに事態を好転させようと足掻いてきたことがわかる。貧困や孤独や病と闘った痕跡を認めることができる。犯罪行為に至るまでには、それぞれに固有の事情があった。

 ヒデキにしてもそうだ。情緒不安定な母親から過剰に甘やかされて育ち、働かずとも遊ぶ金は与えられ、シンナーを吸っても咎められず、善悪という概念を知らないままに大人になった。酒を飲むのは快楽のためではなく、不安や孤独を紛らわせるためだ。

 彼らのことを理解すれば理解するほど、「憐れみ」のような気持ちがわいてくる。でも、いつもここで考え込んでしまう。事情があるから仕方ないのか? 憐れむということは、彼らをなにか弱々しく主体性のない被害者のようなものに固定化してしまうことなのではないか? 優しさのようにみえて、それは残酷な諦めなのではないか?

 ヒデキにかわって電話に出た西田に、思わず「憐れでなりません」とつぶやいた。「そら私かって憐れやと思う」。そう言って少し黙り込んだ西田は、こう続けた。

「でも私は、ヒデキに優しい言葉をかけたりせえへん。アホ、ボケ、カス、毎日言うてる。なんでそない厳しくするんか? そら、優しさだけでは変わらんからですやん。ド真剣に向き合ったら、言い方はそら、厳しくもなる。でも、古い自分から解放されるには、自分の弱い部分を直視してもらわなアカン。だから私はあえて厳しくしてる。憐れんでるだけでは、前に進まんのです」

「憐れみ」と「厳しさ」は、西田のなかで矛盾しない。

 西田は人の弱さをとことん理解し、そのうえであえて厳しく叱咤する。それが西田の体現する愛の本質なのかもしれない。

 電話越しのヒデキの叫びが、頭から離れない。

「俺は生まれ変わりたいんや!」

 あれは間違いなく、本心だった。そこに一筋の光をみるのは、楽観的に過ぎるだろうか。