くたばれ、本能。ようこそ、連帯。

第1回 くたばれ、本能――『BEASTARS』論(3)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
第1回は、「動物版青春ヒューマンドラマ」を謳う板垣巴留『BEASTARS』(2016〜2020年連載/秋田書店)。主人公・レゴシが本能を超克した先に待っていたのは何だったのか――。

※この記事には漫画『BEASTARS』の結末に関するネタバレが含まれます。

※前回はこちら

●「ビースター」のゆくえ
 ここで今一度、同作のタイトルへ立ち戻ろう。「ビースターズ」とはレゴシとルイの友情関係の名前であり、同時に現在の「壮獣ビースター」ヤフヤには達成できなかった一つの理想であった。
 ヤフヤはかつてレゴシの祖父・ゴーシャと、二匹が社会秩序を守る英雄として並び立つ「ビースターズ」になろう、と誓い合っていた。350°を見渡すことができる草食獣のヤフヤと、残り10°の視界を得意の毒で制する肉食獣のゴーシャ。二人は相互補完しながら悪党たちと戦い、社会に完璧な安寧をもたらそうとしたのである。
 それが頓挫したのは、ゴーシャがトキと結ばれ、社会の英雄になることより家庭の幸せを優先したためだった。ヤフヤは自らが想定していた「完璧」な治安維持体制としての「ビースターズ」を喪失し、思想を改めた――同族のメスと後腐れない関係を持ち、「ビースターは孤独でいいんだ【40】」とつぶやく。今のヤフヤにとって、異種族に惹かれる心、異性に惹かれる心は「雑念」だ。「孤独」に生き、草食獣としてのプライドを持って悪を牽制し続ける強さこそ、ヤフヤの考える「社会に求められるリーダー」=ビースター像だった。
 一方で、レゴシとルイはどうか。レゴシとルイは、最後までヤフヤのような公に認められたビースターにはならない。ただビースターにできないことをやるために、「ビースターズ」となるのである。メロンとの決戦前にレゴシとルイが交わす会話が、特に象徴的だ。

「そんなのビースターがやる仕事だ! 俺たちがどうこうして成し遂げられることじゃない」
「そうですよ 俺たちはビースターじゃない!! そんなもの目指してない」「こんなボロボロの2匹だ でも2匹なら…!!」「ビースターズ…なら…」【41】

 レゴシは社会正義を体現するビースターを、「そんなもの」と言い放つ。この背景には、ゴーシャに執着するヤフヤがレゴシに嫌がらせをしてきたことも影響しているが、それ以上に、レゴシは本気で「そんなもの」に興味がないのだ。レゴシにとって必要なのは、ハルとの「愛の遂行」のためにメロンと決着をつけることだけだった。ルイはそこに、レゴシ本人は理解していない、世界が変わる予兆を見る。
 つまり『BEASTARS』において「本能」に縛られた世界を変革するのは、英雄の体現する社会正義などではなく、「少年」の一途な愛情なのである……というか、レゴシにとって世界の変革は、ハルと結ばれることの副産物に過ぎない。

●革命からこぼれ落ちるもの
 前節の結論を端的に表しているのが、レゴシがメロンに打ち勝つシーンだろう。裏市に染み付いた草食獣の血の匂いは消えないというのに、肉食獣と草食獣が融和するなど綺麗事だと、メロンは言う。わざわざおどけて肉食獣と草食獣の会話を演じてみせながら、和解の白々しさを説くメロンに、レゴシが突きつけるのが以下のセリフだった。

「下手だ…」「メロン お前… 誰かと楽しく会話とかしたことないだろ…」【42】

 そしてレゴシは、いくら染み付いた匂いが消えなくとも、「裏市の残り香よりも今に夢中になる【43】」「普段は鋭すぎる皆の嗅覚が鈍るほど会話をする【44】」可能性があるだろう、と諭すのだ。このときレゴシの脳裏に過るのは、演劇部の仲間達と肉食草食関係なく語り合った、愛おしい思い出である。言ってしまえば、メロンはレゴシの愛情と、それに伴う人生経験によって「負ける」のだった。
 物語の終盤、レゴシは「持って生まれたものなんて …何の自信にもならないんです」「オオカミの肉体よりも 自分が見てきたもの 感じたものの方がずっと心強くて自信になる」【45】とも語っている。つまり物語は、「本能」を愛と人生経験で乗り越える道を示して終わる。
 自らの愛が、人生経験が、レゴシを「強く」し、持って生まれた「本能」の超克へ至る……これは一見明るい。だがこの結末は、本当に解放だと言えるのだろうか?
 違和感が消えないのは、世界の変革が結局レゴシ個人の持ち物に依拠して行われているからだ。すでに確認した通り、レゴシが「強くなる」経緯は、「男になる」過程として描かれる。さらにレゴシは自らの愛を草食獣に対するフェティシズムであると繰り返し表明しており、「変態のオオカミ」を自認しながら草食獣との交流を継続する(=「愛の遂行」)ために草食獣を守る、というのが基本姿勢である。つまり革命の根底にあるのは、マスキュリンな情動なのだ。
 ここには二つの問題があるだろう。まず一つは、革命そのもののマスキュリニティである。最後の決戦における共闘者としてレゴシが選ぶのは、ルイであってハルではない。ハルは文字通り、血の一滴すら戦場には参加できないのだ。
 戦士としてのメスの獣は作中に何人か登場するが、レゴシは「俺が最も苦手な女性との戦闘だ【46】」「いやでもやっぱりさ 女性は女性じゃん!!【47】」と述べ、戦闘を忌避する。メスのキツネであるテンと戦わざるを得なくなった場面では、わざわざスカートとハイヒールを身につけて立ち向かい、「オオカミが吠えてキツネを守ります…【48】」と申し出るなど、妙な「配慮」が目立つ。
 さらに言えば、レゴシの女性に対する忌避感は、レゴシが「童貞」だから、という理由に収斂され、排除ではなく「畏怖【49】」として説明されるのである。『BEASTARS』の革命において、女性はレゴシのあり方によって周縁化されている。
 そして二点目、情動の問題だ。情動それ自体が悪いわけではない。だが感情的な繋がりによる世界の変革は、感情的に繋がれない相手、感情的に繋がろうとして失敗した相手の取りこぼしを意味する。愛の可能性は無限ではない。世界には愛の否定者の居場所が必要であるはずだ。
 実際、メロンに象徴される愛の否定者をいかに社会は包摂しうるか、という問いに対する『BEASTARS』の回答は、筆者の目にはむごいものに映る。

「おっさん あのコンビみたいに… 本当に肉食と草食って共存できると思うか…?」「もし出来るなら パパを愛しすぎたあまり食い殺したママと… それが恐ろしくてママを殺したハーフの俺… この負の連鎖ってなんだったの?」【50】

 レゴシとの決戦後に自殺を試みて失敗したメロンは、ヤフヤにおぶわれながらこう尋ねる。先に述べたように、メロンの父は「愛の遂行」のための「覚悟」がなく、それゆえにメロンの母から逃げるように別れたというだけで、殺されてはいない。だがヤフヤは真実を伝えることはせず、「今頃天国でもパパはママに食われるって逃げ回ってんだろうな【51】」と嘲るメロンに「パパとママはきっと仲良くやってるさ【52】」と嘘をつくのだ。
 このシーンには、ヤフヤの「自分が今やっと 本当のビースターになった気がした【53】」というモノローグが重ねられており、ヤフヤが草食獣―肉食獣の愛による融和を新たな建前として獲得したことが示唆される。これはもちろんレゴシとルイに影響された結果だ。
 しかしこの建前は、メロンがヤフヤの首筋に噛みつき、「あんた…俺に安い同情向け始めていただろ…」「俺自身が歩んできた悪の獣道に同情の余地はねぇぞ」【54】と吐き捨てたことですぐさま破られるのである。
 この描写は、ヤフヤの嘘――つまりレゴシとルイの結論――でメロンがすっきり救われてしまうよりよほど説得力がある。「仲良くやる」の想像ができない者、愛を受け取れない者は、レゴシの革命から明確にこぼれ落ちる。これは当然の流れだ。
 だがひっかかるのは、その後ヤフヤがメロンについて「善悪かかわらず言えることでしょうけど…」「“本物”を扱う大変さを知りましたよ」【55】と述懐している点なのだ。「善悪かかわらず」と留保されているものの、ここで“本物”とは「本質的な悪」としてのメロンを指すと読み取れる。メロンの「悪」は、ここでも「ハーフ」同様、メロンの「本質」として還元されてしまうのである。これはすなわち、愛の肯定者/愛の否定者という線引きの本質化ではないのか。前者――つまり「愛の遂行」を熱烈に志向するレゴシが革命を起こすとき、後者に分類された者たちの行く末は宙吊りにされてしまう。だが物語はそのまま幕を下ろすのだ。革命は革命である、かもしれない。だがそれはレゴシの革命であって、メロンの革命として開かれることはないのである。