重箱の隅から

いつの間にか忘れられてしまうこと①

 たとえば、北京オリンピックのメイン・スタジアムの屋根のデザインは『グリーン・デスティニー』で主役女優の被っていた竹の乱れ編みの笠にそっくりだったのを思い出したのは、まだ中止と決定したわけではない東京オリンピックの新国立競技場がメディアでさかんに紹介される映像を見たからだろう。
 こうした公共の大きな建造物は、上空からのカメラによってその外見が示されるので、北京のそれはチャン・ツィイーが被っていた竹編み細工の笠にそっくりであり、東京のそれは、杉の薄板を曲げて作る小判型の曲げわっぱにそっくりなことがすぐに見てとれるのである。作られる地方によって様々な名前で呼ばれるが、ようするにコンパクトであることが身上のわっぱのデザインを建築の理念に据えたらしいと、誰でも推察できるのは、上空からの見ためそのままなのだから当然として、しかし、この曲げわっぱ型弁当箱(子供の頃、家には母が女学生の時分に使っていたアルマイト製で蓋にオウムの柄のものと、姉が幼稚園通園に使っていたやや小ぶりのバラの柄のものがあったが、昭和24、5年製の物はアルマイトの薄い安易なつくりから戦後の貧しさがうかがわれたものだ)が中身として内包しているのは、今はもう覚えている者が多いとは思えない、その反コンパクトな居丈高な資本主義的巨大さが日本中から猛反対された感のあるザハ・ハディドと対立する思想ということになるだろう。むろん、ハディドは建つことのない建築を設計することで知られてもいるのだし、日本で採用されたデザインは、ちぢみ型資本主義とぴったり重なるこのお弁当箱建築だったわけだ。コロナのパンデミックのおかげで新国立競技場と呼ばれる木製の理念を生かした弁当箱の蓋は、ともあれ開かれることはなかった。
 佐伯啓思が紹介している(「コロナ禍見えたものは」朝日新聞ʼ20年12月26日「異論のススメ」)「スロベニアの哲学者であるジジェク」は「コロナ騒動でひとつよかったこと」を「あの豪華客船のような猥雑な船とはおさらばでき、ディズニーランドのような退屈なアミューズメントパークが大打撃を受けたことだ」と言っているそうだ。(註1)
「おさらばできた」と、ジジェクは持ち前の明朗なシンプルさで言っているらしいが、つい何日か前(GOTOキャンペーンの見直しが云々されている最中)の様々なプログラムのツアー旅行が満載の新聞広告のあまり目立たないすみに、完全消毒整備されたダイヤモンド・プリンセス号の船旅の広告が載っていたのだが、それは私の見間違い(たとえば、エメラルドの? あるいは、プリンスの?)だったのだろうか。(註2)もとより、DLほどの巨大資本ではないが、西武鉄道の経営するアミューズメントパーク「西武園ゆうえんち」は、60年代をイメージした街並みの「ALWAYS三丁目の夕日」の世界にリニューアルされるそうで、西武鉄道会長は「コロナ禍で人々の行動や価値観は大きく変化し、心の触れ合いを通じた幸福感が求められている」(東京新聞ʼ20年11月25日)とコメントしているが、それがなぜ、60年代の街並みや商店街なのかはわからないとはいえ、人が密着的に密集しないようではアミューズメントパークは大打撃ではあるだろうが、それ以上の巨大な打撃が、東京五輪・パラリンピックの延期だと考える人々もいる。記者がまとめる一年を回顧するならわしの記事を、朝日新聞のアート系編集委員である大西若人は、もしかすると日本社会への皮肉の気分が込められているのかもしれないとも読める調子で書いている(朝日新聞ʼ20年12月29日)。
 東京五輪・パラリンピックが開かれるはずだった2020年は、「本来、幸せの絶頂を迎えるはずだった」のに「鬼のような新型コロナウイルスが現れ、あっという間に地球上に暮らす人々の健康をむしばんだ」と書く。一昨年から去年の3月以前、都庁関係者たちがオリパラと称していたのがやけに耳についたそれが、なぜ幸せの絶頂という言葉に結びつくのかまるで訳はわからないのだが(註3)、以下、一部を引用する。
「ものを考え、声を発し、行動し、匂いや音を感じる人間の身体。今年は、その弱さ、もろさを改めて感じることになった。一方で、感染症があっという間に世界を覆ったという事実は、地球上の誰もがみな等しく、この弱い身体を持っていることに気づかせた。」「逆にいえば」と、書き手は続けるのだが、何が「逆」なのかはよくわからない。「身体の弱さ、いとおしさを知った人間は、他者の身体をこれまで以上に思い、想像することができるようになりえたのではないだろうか。」
 オリンピック・パラリンピックがオリパラと口にしやすい形で短縮されるように、新型コロナウイルス感染症という言葉も、コロナと略されて有効な治療薬もないまま流通し、編集委員が回顧するような、他者の身体への想像力を持つような経験となりえたのかどうかは疑問だが、とはいえ、たとえば言葉によって小説というスタイルで「仕事」をする者は、それが時代を映す鏡であることを証明しようと真摯な様子でやっきになる。
「気づけば、これまで生きてきたのとはちがう世界の中にいるよう」(小野正嗣、朝日新聞ʼ20年4月29日)なコロナ禍の世界で、別の作家は「致死率の高さも恐ろしいがそれよりもっと怖いのが、これまでの価値観や人間の結びつきを引き裂くこのウイルスの真の毒性」だと言うのだが、人類や地球の滅亡を扱ったSF小説の決まり文句のラストシーンのように「人類にはまだ希望がある」ことを告げてくれるし(辻仁成、朝日新聞ʼ20年4月22日)、なにしろそれは新聞の文芸時評欄なので、「この世界にいる限り誰も無関係ではいられない未曾有の事態に、各文芸誌の特集が示すように文学者たちが様々なやり方で応答」していて、「それらの仕事」は「ある時代(コロナ時代?)に作家やその周囲の人々がどのように感じ、行動したかについての重要な証言になるだろう」(小野正嗣、朝日新聞ʼ20年7月29日)と言うのだが、「歩かないで、考える」ために何冊もの本を読んで「18歳の独房以来」沈思した作家は「ぼくたちは、まだ「流行」のただなかにいて、かつてないほど、考える時間を与えられている」と緊急事態宣言下の5月のある日に書く(高橋源一郎、朝日新聞ʼ20年5月15日)。実直に「他の人間との接触は制限され、外出することもできず、家に閉じこもる」からである。もっとも島田雅彦は軽い調子で、「元々、物書きは引きこもり傾向が強い」から「外出自粛などは屁の河童で、日課のように近隣の森を散歩するカントやルソーのような暮し」を送っていたのだが(「暮しの手帳」ʼ20年8-9月号)、高橋は、ぼくたちは「けれども、間違いなく、そのほとんどを忘れてゆくだろう。大きな戦争や事件に対してそうだったように。そのことだけは忘れまい。」(傍点は引用者)と、文章を書くほどの者が使いがちの陳腐な決めのひとことを付け加える。私たちがあらゆることを忘れて生きてゆく存在であることは間違いないことであるにしても、そのことだけは忘れまい、一点豪華主義的に記憶を保持しなければならないのだという覚悟と高橋の文章を読むべきなのだろうが、もちろん、簡単に戦争や事件を忘れない人々はいつでも存在するのだ。
 その一方で、知識人として何かを発言しなければならない責任やら義務を信じているせいなのか、たとえば、去年5月、緊急事態宣言を解除した首相が、「日本ならではのやり方で、わずか1カ月半で、流行をほぼ収束させることができた。日本モデルの力を示した」と根拠も示さずに発言したのを真に受けてしまったのか、5月27日の朝日新聞夕刊2面のコラム「時事小言」の冒頭を国際政治学者の藤原帰一は「世界を席巻した新型コロナウイルスの流行に収束の兆しが見えてきた。」と書いていたのだったが、私たちは様々なことを忘れるにしてもこの頃、「流行に収束の兆しが見えてきた」という実感などなかったはずだ。
 これは初めて遭遇したウイルスとの経験なのだから、私たちは間違った対応も間違った予測もするだろうが、とはいえ、それはまったくの未知の領域のことなどではないはずなのだ。たとえば、コロナのパンデミックによってこれだけの経験をしたのだから「世界観や文明観の大きな変化がいると思う」(ʼ20年5月20日朝日新聞インタビュー)と語っていた近代日本政治思想史の中島岳志は、「今回のコロナは、全世界的に平等に降りかかり、階層も関係なく命の危機にさらされ、そのリスクに全体でどう向き合っていくかという問題」(傍点は引用者)と言っているのだが、同じ14版の紙面には、フランスで最も高い死亡率を記録したパリ郊外のセーヌサンドニ県の記事が載っている。感染しにくい若年人口の多い地域にもかかわらず、この2カ月で死者の数が昨年の2倍超を記録し、「不平等が感染拡大を助長したと指摘されている」という記事である。
 アメリカの子どもたちがこの国では誰でも大統領になれると教育されることを思い出してしまうたぐいの、ウイルスの平等。≪この項つづく≫

【註1】もっとも、今夏に延期になったオリンピックについて鈴木俊一前五輪相は、「感染症によって十数カ国が参加できなくても、数の上から言えば五輪として成立する」とテレビ番組の中で発言している(朝日新聞ʼ20年9月8日)。そういうものなのである。
【註2】見間違いではなく、朝日新聞のʼ21年1月3日には見開きでクルーズ船のツアーを紹介する広告が暮れに引き続いて載っていた。「お帰りなさいダイヤモンド・プリンセス」をはじめ、「あけましておめでとうございます。2021年は陽気なイタリア客船でクルーズ・リスタート!」の各種初夢コースが満載。
【註3】幸せの絶頂という私の人生とはまったく関係のない感覚と言葉から思い出されるのは、連載一回目に引用した東浩紀の文章である。「震災からの復興をアピール」するはずの五輪が「開催されない、その虚しさに日本人は耐えられるだろうか。虚無感が変な政治勢力の伸長につながらないよう、警戒したい」(「アエラ」ʼ20年3月9日号)というのだが、対句と見立てれば、中止は、不幸のどん底、ということか。

 

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