ちくま学芸文庫

『世界市場の形成』の魅力

松井透著『世界市場の形成』解説より

世界システム論やグローバルヒストリーに先んじた壮大な世界史構想と評される故・松井透先生の『世界市場の形成』(ちくま学芸文庫、2021年4月)。その魅力を、イギリス帝国史、グローバルヒストリーがご専門の秋田茂先生に解説していただきました。

 本書の著者、松井透(1926~2008年)は、日本の南アジア学界を代表する歴史学者であり、1988年に設立された日本南アジア学会の初代理事長を務めた。代表的著作としては、いずれも東京大学出版会から出版された専門書、『北インド農産物価格の史的研究』(1977年)と、『イギリス支配とインド社会――一九世紀前半北インド史の一研究』(1987年)がある。本書はその松井透が、南アジア地域研究を基盤としながら、壮大な「世界史」を構想する過程で、30年前の1991年に出版した一般読者を対象とした著作である。21世紀の現代において、新たな世界史である「グローバルヒストリー」研究が注目されて、その有効性と意義をめぐり賛否両論が展開されるなかで、数多くの著作や翻訳書が出版されている。こうした歴史学のGlobal-turn(グローバルな転回)とも言うべき現代において、本書は、30年の時の経過を感じさせない問題提起と、史実の確認、歴史的なデータ確認の重要性に、改めて気づかせてくれる名著である。筆者は、イギリス帝国史研究会の事務局長として、また英領インド史研究の一研究者として、長年にわたり大先達の松井から多くのことを学んできた。以下では、学説的な観点から、松井が遺したこの本の重みを考えてみたい。

 本書の魅力は、以下に述べるように3点あり、本書の各章に関連してくる。

 第一の長所は、I・ウォーラーステインが提唱した「近代世界システム論」(1)の刷新を示唆する提言を、30年前に行っている点である。第1章では、近世以降のヨーロッパの経済成長に対する、植民地・従属諸地域の貢献をめぐる、オブライエン= ウォーラーステイン論争の紹介が行われる。当時のP・オブライエンは、イギリスの正統派・主流派を代表する経済史家で、イギリス産業革命の画期性(世界で初の工業化)と、それが実現したイングランド特有の内部事情(先行した科学革命・農業革命や重商主義政策など)が決定的に重要であることを強調していた。植民地などの「周辺」「半周辺」諸地域が、「中核」地域の経済成長に対して果たした役割を重視するウォーラーステインとは、真っ向から対立していた。1970年代以降の世界の学界では、従属論から派生した世界システム論が注目され、1990年代からは、日本でも近代世界システム論が高校世界史の学習指導要領にも取り入れられて定着したため、オブライエンの主張は、この松井の紹介を通じて、旧主派の反動的で、西洋中心主義的な歴史解釈であるとの印象を与えられ、進歩的な歴史家の間では「不評」であった。

 しかし、そのオブライエンの主張も、20世紀末から劇的に変わった。現在の彼は、産業革命にいたるイギリス近世の経済発展を相対化して、近世アジア、とりわけ清朝時代の中国沿海部の経済発展を高く評価している。イギリス経済史学界の長老の、百八十度の「変身」である。オブライエンは1996年から、ロンドン大学歴史学研究所(IHR)で「グローバルヒストリー・セミナー」を開始した。2003~2006年には、LSE(London School of Economics)を中心とする国際共同研究Global Economic History Network(GEHN)を立ち上げ、日本の杉原薫を含めた世界の主要な経済史家を巻き込んで、グローバル経済史研究を展開した。そのGEHNが実現した直接のきっかけは、アメリカ・カリフォルニア学派のK・ポメランツによる、2000年の「大分岐」(Great Divergence)論の提唱であった(2)。「大分岐」論自体が、16世紀以降の西欧諸国を中心とした「世界経済」の拡張、ウォーラーステインのように西洋中心主義的な近代世界システムの理解に再考を迫る問題提起を行っている。とりわけ同論は、18世紀の「近世の時代」(Early Modern)の根本的な再考を求めている。すなわち、西欧、中国の長江デルタ、江戸時代の畿内・関東、北インドのベンガルという四つの主要な地域では、同時並行的で、共通した経済発展がみられたとされる。大分岐論の出現により、従属的な発展=「低開発」を余儀なくされたとされてきた、「周辺」「半周辺」の非ヨーロッパ諸地域に対するネガティヴな評価や、中華帝国(清朝)やムガル帝国など、近世のアジア諸帝国の歴史の見直しが行われるようになった。

 本書が、こうした研究史上の大幅な見直しが始まる前に、「古い」オブライエンに代表される西洋中心主義的な歴史解釈の問題性を早々と指摘して、私たちの常識や通説的な歴史理解に再検討を迫った点は、先見の明があったと言える(逆説的に、主流派オブライエン自身の見解が劇的に変化したため、松井による論争の紹介自体のインパクトが減じてしまった、と言えるかもしれないが)。

 第2の長所、本書の最大の魅力は、イギリスを中心に、17~18世紀の近世の「世界市場の形成」を実証的に論じた第2章にある。本書には、第2章を中心に、全部で65個の図表が収録されている。これら一連の図表を作成するにあたり、松井は、近世期イギリスの貿易データを徹底的に収集・統合・編集して、その過程で700を超える図表を作成していた。本書に収録されたものは、この膨大で気の遠くなるようなデータ処理と分析の成果である。初期のコンピュータを駆使して作成された諸図表には、松井の史実探求への熱意と、読者への分かりやすさを追求する姿勢が反映されており、AI時代の現代の私たちにはわからない、苦労と努力があったと思われる。本書を読み解くには、本論である第2章の図表を的確に把握して、そのつながりを理解することが大切である。

 非常に長い第2章を通じて、松井が提起した論点は2つある。第1の論点は、近世を通じて、環大西洋世界を中心として、「輸入先導型」の世界市場が形成されて、南北アメリカの新大陸における植民地開発を前提とした、「環大西洋型」の世界市場の出現を明らかにした点である。はじめは奢侈品であった新大陸産のモノが大量に輸入される過程で、イギリス本国では、砂糖・タバコなどの輸入品を通じた消費の多様化(消費革命)と、日常生活の質的な向上が見られた。また、インド製の綿布に代表されるアジアからのモノの輸入は、ヨーロッパで消費社会が誕生する重要な要因になったが、まだ18世紀末までは、世界市場はアジアにおいて未完であったことも指摘している。

 第2の論点は、この環大西洋型の世界市場は、ジャマイカなどの西インド諸島(カリブ海諸地域)や、北米植民地の南部を巻き込んで、多角的で多様な三角貿易を通じてつながる一方で、アジア諸地域との貿易は、18世紀中葉以降、「植民地収益」で決済されるようになった、という指摘である。この第2点目は、近世の世界市場が、植民地支配を長期にわたって支えるテコとなったという「重大な史的契機」を指摘するもので、第1章で紹介されたオブライエン= ウォーラーステイン論争で、ウォーラーステインの主張を支持する松井の立場と論点を確認できる。

 以上の第2章での主張は、LSEの経済史教授であったR・デイヴィスの優れた先行研究に大幅に依拠しており、その研究史上での価値を改めて確認している。この点で、本書には、川北稔が1983年に刊行した著書『工業化の歴史的前提――帝国とジェントルマン』(岩波書店)で展開した議論を環大西洋世界で再確認するにとどまっている、という辛口の批評も当てはまるかもしれない。とは言え、本来は南アジア史が専門で、南アジア(インド)における植民地主義の功罪をめぐって、Indian Economic and Social History Review 誌上で展開された「Morris-Matsui 論争」(3)で有名な松井が、あえてイギリス経済史の領域に踏みこんで議論している点は、世界史的視野をもって、世界の学界を相手に勝負してきた松井ならではの独自性がみられる。イギリスの統計資料に限定されてはいるものの、徹底したデータ分析を行って引き出した議論は、狭義の西洋(イギリス)経済史の専門家による視野が限定された考察と比べると、はるかに説得力がある。特に、イギリスによる「輸入先導型」の世界市場形成の特異性を解明した点は、高く評価できる。

 本書の第3の長所は、第3章「世界市場の拡大と深化」で、世界市場の発展を「複合した史的要因」「外生的な要因」で説明する点である。特に、いくつかの偶然性と、幸運な出会いともいうべき「大西洋の向こう岸の新世界との出会い」を、その代表的事例として指摘する点は、K・ポメランツの「大分岐」論に先行した同じ論点として、注目に値する。新大陸と石炭に着目するポメランツの「大分岐」論よりも、本書の松井の議論の方が、先に提起されていた。さらに松井は、世界市場の発展が、単に経済の内的要因だけでは説明しきれないこと、世界市場は多大な代償を払いつつ形成されたことを強調する。

 この点は、19世紀後半への展望として、本書の最後の部分で論述されている。具体的には、南アジア(インド)経済史研究のプロとして、19世紀後半の英領インドにおける、アジア初の鉄道建設の進展と、それを促した利子保証制度との関係性や、南アジアからイギリス本国に向けたカネの流出(本国費、「富の流出」論争)を取り上げて、富の偏在と格差の拡大のメカニズムを説明している。また、同じく19世紀後半のインドにおける綿花栽培の変容も、生態系(自然環境)や文明観への影響も含めて、次のように論じている。

 「世界市場の拡大とともに綿花の生産・流通の中に導入された技術革新によって、すな   わち当時の‟gin”のレベルが代表するような『文明の進歩』によって、下級品へ揃える方向でインド綿花が規格化された結果、ローラーでならすようにその品質の『劣悪性』が生み出された、という側面があることを見落としてはならない。」

ここでは、生産の規格化・能率化の追求、「一人当たり生産」の増加を目標とした経済開発が植民地支配下で進展するなかで、インド古来の農業が蓄積してきた綿花生産の環境・生態系に配慮した多様性が失われ、一様に原綿品質の損傷(粗悪化)がもたらされたことが指摘されている。現代における、生態系の悪化と持続的な経済成長の実現可能性、効率至上主義と環境問題との連関性などを想起させる、控えめではあるが貴重な問題提起がなされている。

 以上、本書の見どころを3点にまとめて論じた。一見すると無味乾燥な、近世イギリスの貿易統計データの収集と分析にとどまるように見える本書が、実は、30年も前に、現在の新たな世界史、グローバルヒストリー研究の興隆につながる貴重な問題提起を行っていることが、読者の皆様にはご理解いただけたと思う。松井が遺した数少ない一般書の一冊が、こうして文庫版としてよみがえることを喜ぶとともに、著者の遺志を継いで、西洋中心主義にとらわれない、新たな「アジアから見たグローバルヒストリー」の構築をめざしたいと思う。

(1)ウォーラーステインの近代世界ステム論については、川北稔『知の教科書 ウォーラーステイン』(講談社選書メチエ、2001年)を参照。

(2)K・ポメランツ(川北稔監訳)『大分岐ーー中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』(名古屋大学出版会)。「大分岐」論とカリフォルニア学派については、岸本美緒「グローバル・ヒストリー論と「カリフォルニア学派」」成田龍一・長谷川貴彦編『〈世界史〉をいかに語るか―ーグローバル時代の歴史像』(岩波書店、2020年)を参照。

(3)M. D. Morris, ʻTowards a Reinterpretation of Nineteenth-Century Indian Economic Historyʼ ; T. Matsui, ʻOn the Nineteenth-Century Indian Economic History―A Review of a “Reinterpretation”ʼ, Indian Economic and Social History Review, Vol. V, No. 1 (1968).

2021年4月19日更新

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秋田 茂(あきた しげる)

秋田 茂

1958年広島県生まれ。広島大学大学院文学研究科博士後期課程中退。博士(文学)。現在、大阪大学大学院文学研究科教授。専門は、イギリス帝国史、東アジア国際関係史、グローバルヒストリー。著書に『イギリス帝国とアジア国際秩序――ヘゲモニー国家から帝国的な構造的権力へ』(名古屋大学出版会、2003年、第20回大平正芳記念賞)、『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』(中公新書、2012年、第14回読売・吉野作造賞)、『駒形丸事件――インド太平洋世界とイギリス帝国』(ちくま新書、2021年、共著)などが、訳書に、P・J・ケイン、A・G・ホプキンズ『ジェントルマン資本主義の帝国I 創生と膨張1688-1914』(名古屋大学出版会、1997年、共訳)などがある。

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