ちくまプリマー新書

「シロ」という名の黒い犬? 名前と「らしさ」の不思議な関係
『「自分らしさ」と日本語』より本文を一部公開

社会言語学の知見から、ことばで「自分」を表現するとはどういうことかを考える一冊『「自分らしさ」と日本語』(ちくまプリマー新書)が好評発売中! 本記事では「名前」に対して人びとが無意識に抱いている感覚を見ていくことで、ことばの背後にある社会の規範や価値観を解きあかします。

アイデンティティを示すことばの代表は、名前だろう。「あなたは、だれですか」と聞かれれば、名前を答える。あたかも、名前こそが、私が私であることを証明してくれているようだ。

名前に対する二つの感覚――「名実一体観」と「名前符号観」

 私たちの名前に対する考え方は、大きく二つに分けることができる。ひとつは、名は体を表す、名前はその人そのものであるという「名実一体観」。もうひとつは、名前は人物を特定する符号に過ぎないという「名前符号観」とでも呼べる考え方。私たちの名前に対する感覚は、この二つの考え方の間をさまざまな程度で行き来している。

 日本の「名実一体観」は、すでに古代から神々、ミカド、天皇の名を書いたり口に出すことを避ける「実名敬避」の伝統にみられる。さらに、古代・中世においては、自分の名前を知らせることが、その人の弟子や従者になる、あるいは、敵に降伏する意味を持っていた。

 実名敬避の伝統は、現代でも、目上の人を名前で呼ぶことを避けるという形で残っている。会社では、下の人は上の人を名前ではなく職名で呼ぶが、上の人は下の人を名前で呼ぶ。社員は、社長を「社長」と呼ぶ。しかし、社員に、「社員」と呼びかける社長はいない。「中村さん」と名前で呼ぶ。目上の人は下の人を名前で呼んでも良いのだ。家庭でも、弟は兄を「兄さん」と呼ぶが、弟を「弟さん」と呼ぶ兄はいない。学校でも、生徒は先生を「先生」と呼ぶが、生徒を「生徒」と呼ぶ先生はいない。

 それ以外にも、名実一体観は、さまざまな所に顔を出してくる。

 私たちは名前の言い間違い、読み間違い、書き間違いは、他のことばの間違いと比べて、失礼なことだと認識している。卒業式で、名前を読み間違えられたら、がっかりだ。「スマホ」「パソコン」など、なんでも省略して短く言う時代でも、人の名前は本人の承諾がなければ省略しない。

 先日公園に行ったら、「シロ!」と呼ぶ声がした。すると、声の主をめがけて真っ黒な犬が走り寄ってきた。ちぎれるほどにしっぽを振って飼い主に頭をなでてもらっている黒い犬を見て、飼い主のユーモアに、ほっこりした。そして、「シロ」の意味など関係なく、自分の名前に反応する犬をかわいらしく思った。これも、「シロという名前ならば白い犬だろう」という名実一体観を裏切る命名だったからこその感慨だろう。

 名実一体観は、日本に限ったことではない。ファンタジー文学のベストセラー『ハリー・ポッター』シリーズでも、多くの魔法使いが、闇の帝王「ヴォルデモート」を「名前を言ってはいけないあの人」と呼び、その名前を口にしないばかりか、ハリーがその名前を言うと、あたかも、名前そのものが本人であるかのように恐ろしがる。

 グリム童話の中には、自分の名前を当てられると怒って自分自身を引き裂いてしまう小人が出てくる、『がたがたの竹馬こぞう』という話がある。

一人一名主義

 名実一体観を大きく変更させたのが、明治五(一八七二)年に明治政府が発布した改名禁止令と複名禁止令である。それまでの日本では、元服、襲名、出家、隠居など立場が変わるごとに改名していた。元服をすれば幼名から成人名へ(伊達梵天丸→伊達政宗)、隠居をすれば改名(滝沢馬琴→滝沢笠翁)、出家をすれば俗名から戒名へ、職業、立場、地位の変更が必然的に改名をともなっていた。このうち、戒名は現在でも機能している。仏壇の中の位牌に書いてある名前だ。

 さらに、官名や国名など一人の人が同時に複数の名前を使うこともまれではなかった。「赤穂浪士」で有名な大石内蔵助の「内蔵助」は官職を指し、元の名は、大石良雄だ。宮本武蔵の武蔵は、武蔵の国からきている。

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