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第2回 罠の外を知っているか?――『呪術廻戦』論(1)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
第2回は、アニメ化を機に4500万部の大ヒット作となった芥見下々『呪術廻戦』(2018年より連載中/集英社)。連載開始と物語の始まりは同じ2018年。明確に「今」を描く本作において、子どもたちはなぜ戦うのか――。

●呪術師という仕事の「暗さ」
 ストーリーの詳細な分析に入る前に、作品世界の前提となる呪術師業界のあり方について確認する。ここでも「暗さ」は重要な要素となる。
「常に死と隣り合わせ」の「不快な仕事」【2】。呪術高専の学長・夜蛾正道(やが・まさみち)は、呪術師という仕事をそのように評価する。これは何一つ間違っていない。
 まず、呪術師が見る戦場はむごい。これはただ単にグロテスクな描写が多いという意味ではなく、死があっけなく、容赦なく、受け止めきれないような形でやってくることを意味する。作中で死ぬキャラクターは、そのほとんどが死ぬ覚悟など決めていない。後悔を残し、あるいは残す暇もなく、そして残された側にも死を丁寧に悼む余裕すら与えられず、ただ草の実が踏まれるように死が生じていく(この点はキャラクターの死について執拗に走馬灯の展開と追悼を行う吾峠呼世晴『鬼滅の刃』との大きな相違であろう【3】)。
 作中、「呪術師に悔いのない死などない【4】」「死ぬときは独りだよ【5】」と明言されているように、呪術師は志半ばであっけなく戦場に散るのが、一つの「当たり前」であった。呪術師として生きるということは、むごい死に直面し続け、いずれ自らもどこかでその死に連なることなのだ。呪いが呪いでしか祓えないのと同じように、呪術戦への投身は、殺し/殺される関係への投身に等しい。
 それでいて、呪術戦は社会において常に不可視である。もともと大多数の人の目には見えない呪霊を、結界(「帳」と称される)で覆い隠した戦場で祓い、不条理に引き起こされる死を未然に防ぐ/あるいはすでに起きてしまった加害を「”報い”の歯車【6】」として裁くのが呪術師だ。たとえ何人救おうと、呪術師が公の晴れ舞台に立つ日は訪れないどころか、この仕事の重要性について同意を得ることすら難しい。
 そして呪術師の圧倒的な頭数の少なさは、労働者としての呪術師を苦しめる結果をほうぼうで生んでいる。

 具体的に説明しよう。第一に、割り当てられる仕事が量・質・責任ともに過剰になりやすいことが挙げられる。
 呪術師は個々人の強さに応じて特級、一級〜四級までの等級が割り当てられており、仕事もこの等級に応じて言い渡される。だが人手不足ゆえに、学生であっても戦場に駆り出されるし、自身の能力で対応できる限界を超えた厳しい任務が振られる場合もあり、予想外の敵戦力によって落命する呪術師も少なくない。それでもごくわずかしかいない呪術師一人ひとりの働き次第で、途方もない数の非術師(呪術師ではない人間)の生き死にが決まってしまう以上、呪術師は戦うほかないのだ。呪術師は非術師の生命に対して非常に重い責任を負うことになり、心身ともにすり減りやすい環境に置かれている。
 第二に、呪いを行使する能力=「術式」の問題がある。術式はごく一部の人が持って生まれる才能で、一部の例外を除けば、基本的に全てが先天的な能力である【7】。呪術師人口の少なさの主たる原因は術式だと言ってよいだろう。それゆえに呪術師業界の外に術式を持った者、見込みのある者が見つかれば、呪術高専は勇んでスカウトに来る。術式を持てば、呪術師への道が強制的に開かれるのだ。
 では呪術師業界内部ではどうか。術式は血縁によって継承される場合が多く、強い術式の「血統」を持つ家は呪術師業界でも「御三家」(具体的には五条家、禪院家、加茂家)として幅を利かせている。強い術式を継承した呪術師の出現は呪術師業界の勢力図を塗り替えるため、術師の家に生まれた子どもは術式の有無を非常に重視された。強い術式を持った非嫡出子が本家へ売り飛ばされる例や、本家の子でありながら術式を持たない子が徹底的に冷遇される例もあった。術式は呪術師の生存を支える重要な才能であるが、同時に呪術師業界のしがらみ、家・血縁の呪縛の象徴でもあるのだ。
 ビルドゥングス・ロマンにおける異能力及びその発揮は、しばしばキャラクターが自己実現を果たし、「明るい未来」「成熟」を獲得するためのツールとして位置付けられるが、『呪術廻戦』における異能力は決して自分のための持ち物たり得ない。
 これらの背景のせいか、高専生の入学理由は「術式をたまたま持って生まれたから」「呪術師の家系に生まれたから」あるいは「給料の出る進学先を必要としていたから」など、そのほとんどが受動的である。キャラクターたちには選択肢がない。
 呪術師は不自由にして過酷な職業である。この「暗さ」こそ『呪術廻戦』を特徴づける要素だ。『呪術廻戦』作中において、呪術師の仕事そのものに憧れて志願した人間は誰も登場しない。そして呪術師というアイデンティティ、あるいは御三家の誇りに言及されることはあっても、「呪術師としての誇り」が語られる場面はないに等しいのである。

●「理由」を立てる
 この血生臭く、肉体的にも精神的にも耐え難い仕事を、呪術師たちはいったいどのように続けているのだろうか。
 人を呪術師たらしめるのは、呪術師という仕事にそれでも価値を見出すために自らが立てる「理由」である。呪術師たちは自分がなぜ呪術師をやっていくのか、その「理由」を自らの人生経験の中で考え、自身が通すべき筋として据える。
「理由」の重要性は、呪術高専入学者全員が学長である夜蛾によって「君は何しに呪術高専に来た【8】」と厳しく問われる点に顕著であろう。夜蛾は虎杖に対し、呪術師には「ある程度のイカレ具合とモチベーション【9】」が不可欠であると説明した。ここで「イカレ具合」と表現されているのは、「理由」がどれほど個人的であるか、という指標であると考えてよい。「私情」によって虎杖の命を掬い続けることになる同級生・伏黒恵(ふしぐろ・めぐみ)【10】のセリフ「俺は正義の味方ヒーローじゃない 呪術師なんだ【11】」に象徴されるように、呪術師とはパーソナルな動機を軸にせねば続けられない労働であって、「ヒーロー」=社会正義の体現者ではないことをはっきりと示す。
 たとえば虎杖の同級生に当たる高専一年生・釘崎野薔薇(くぎさき・のばら)の場合、「田舎が嫌で東京に住みたかったから【12】」という理由で呪術高専に進学してきた。そんな理由で命を懸けられるのかと尋ねられた釘崎は、「懸けられるわ 私が私であるためだもの【13】」と軽やかに答える。釘崎の地元は隣人が初潮祝いに赤飯を持ってくるような息苦しい村落であった【14】。釘崎はあらゆる人間が身内の距離感で暮らす世界から抜け出さない限り、自分の人生を自らのものにすることができなかったのだ。
 もう一例紹介しよう。一級呪術師・七海建人(ななみ・けんと)は、呪術高専在学時に同級生が落命したことなどをきっかけに呪術師業界から距離を置き、一度は投資信託を扱う会社に就職している。金持ちをより金持ちにするための虚無の仕事に心身を削られながらも、七海は「自分は”やり甲斐“とか”生き甲斐“なんてものとは無縁の人間【15】」だと言い聞かせる日々を送っていた。だがある日、行きつけのパン屋の女性の呪いを祓って深く感謝されたことで、「やり甲斐」を再び求め、呪術師としてやり直す道を選んだのである。
 七海のエピソードは、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』(岩波書店)が下敷きにされているとの指摘がすでになされている【16】。グレーバーは労働者本人が価値を感じていない、なくても誰も困らないのに安定的な報酬を得られる仕事を「ブルシット・ジョブ」、人の生存を直接支えているがひどい労働環境と低賃金で任されている仕事を「シット・ジョブ」と呼び分けた。グレーバーの問題提起は、仕事が道徳的であればあるほど、「やり甲斐」を理由に労働環境が悪化するというものだ。背景にはブルシット・ジョブ従事者からシット・ジョブ従事者への「道徳羨望」があると考えられているが、それは高度に構造化されており、どちらの仕事であっても――状況の差、程度の差こそ無視できないものの――労働者がそれぞれ抑圧されていることに変わりはない。
 話を七海に戻せば、七海はシット・ジョブからブルシット・ジョブへ、そして再びシット・ジョブに回帰したと考えられる。七海は「同じクソならより適性のある方を【17】」とそっけなく語るが、「やり甲斐」は少なくとも七海にとって、命を削る「理由」になるほど重要な要素であった。
 一方で呪術師の中には、ただ単に「力を使うのが気持ちいい」というだけで戦場に出ることのできる、「理由」を必要としない人物も存在する。作中で「最強」「一人でこの国の人間全員殺せる」【18】とまで称される呪術高専の教師、五条悟(ごじょう・さとる)がそれに当たる。ただし五条のような在り方は、よほど強くなければ、そして鈍感でなければ成立し得ない。「理由」を必要とする者/しない者との間に、大きな断絶があることは間違いない。

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