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第2回 罠の外を知っているか?――『呪術廻戦』論(1)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
第2回は、アニメ化を機に4500万部の大ヒット作となった芥見下々『呪術廻戦』(2018年より連載中/集英社)。連載開始と物語の始まりは同じ2018年。明確に「今」を描く本作において、子どもたちはなぜ戦うのか――。

●「意志」というまやかし
 さて、ここで疑念が湧く。呪術師たちがあくまでも自分の意志として「理由」を立てるとき、そこでは本人が高専に至るまでの環境要因が捨象されてはいないか。
 すでに説明したように、多くの呪術師はごくわずかな選択肢、あるいは選択肢がない状況で呪術師になる。虎杖の事情は言わずもがな不随意であるし、伏黒の場合は幼少期に親が蒸発したため、自身が呪術師になることを担保に、自身と姉の分の生活資金を高専から得ていた。釘崎は釘崎で、呪術高専進学以外に東京に出るための資金を用意する手立てがなかった。念を押すが、誰一人(程度の差はあるにせよ、呪術師以外もそうだろうが)自らの意志だけで何かを選べる人間などいない。みな環境に左右されながら、自分なりの合理性――他者から見れば合理性とは映らないかもしれない考え――に基づいて呪術師になる。
 これらの背景があるというのに、呪術師は呪術師である「理由」を個人の意志として説明せねばならない。ここで意志は、明らかに呪術師に至るまでの道の複雑な他律性を切断するためのまやかしとして働いている。ではなぜまやかしが必要とされるのか?
 哲学者の國分功一郎は、意志と責任の関係について以下のように述べている。

無からの創造としての行為などあり得ないというのは、行為へと至る因果関係は複雑に絡み合っていると同時に、それはいくらでも遡っていけるということです。にもかかわらず、意志を無からの創造、行為のピュアな源泉と考えているとしたら、われわれはそのとき、単に因果関係を見ないようにしているだけです。あるいはその因果関係を無理矢理にどこかで切断しているのです。【19】
[…]本当は「意志」があったから責任が問われているのではないのです。責任を問うべきだと思われるケースにおいて、意志の概念によって主体に行為が帰属させられているのです。【20】

 意志を行為の源泉と見ることは、主体の因果関係を切断することに等しい。そして意志によって選んだ行為に責任が生じるのではなく、主体に責任を生じさせるために意志の概念が利用される……。この議論に沿えば、『呪術廻戦』で意志が重要視されるのも、呪術師になる「理由」を社会から切断して個へ収斂させ、その責任を呪術師本人に帰属させるためであると考えられるだろう。
 社会から個を切り離していく姿勢は、虎杖のセリフからも読み解ける。

「宿儺は全部喰ってやる 後は知らん/自分(テメェ)の死に様はもう決まってんだわ【21】
「自分が死ぬときのことは分からんけど/生き様で後悔はしたくない【22】

 これらは呪術師の道を歩むかどうかを問われた虎杖の発言だ。共通するのは、自分の生き様/死に様以外を「知らん」「分からん」という表現で退けている点である。確かに宿儺の指の回収は公共の安全を守るための措置だ。だが虎杖が宿儺の指を回収する目的は公共の安全を守るためではなく、己の生き様/死に様のためだと説明されるのである。
 先に引用した虎杖が「理由」を問われるシーンについて、作者は以下のように説明している。

人を助ける時に「あなたのために助けて(あげて)いる」という意識は、その対象から期待通りの反応が返ってこなかった時に、「助けてあげたのに!!」という感情の裏返りに陥りやすくなり危険だよね〜…というわけで挟み込んだエピソードです。【23】

 この発想、つまり目の前の相手に対する何らかの感情的な期待によって人助けをするのは危ういという考えに従うなら、社会正義こそ人助けの論理に利用されてもよいところである。感情的に繋がれない他者とともに生きる場所こそ社会であり、そこで前提とされるべき理念が社会正義であるはずだからだ。
 だが『呪術廻戦』は「人を救う」行為を、公の目標として成立しないものとして描いている。おそらく『呪術廻戦』が社会の方角を知りながらそちらを見ないのは、同作が社会について、もはや「人を救う」行為において何かを期待できる仕組みではないとみなしているためではないか。
 作中では、社会正義に沿って行動した結果呪術師という労働に耐えきれなくなってしまった人物・夏油傑(げとう・すぐる)と、その同級生にして親友であった五条悟のエピソードが、ごく印象的に挿入されている。(つづく)


【注1】漫画『呪術廻戦』4500万部突破、約1年で累計10倍 “異例の売れ行き”続く(ORICON NEWS/最終アクセス2021年5月14日0時)
【注2】『呪術廻戦』1巻、99頁
【注3】拙稿「『鬼滅の刃』は「感情」漫画である 精神性と当事者性から読む『鬼滅の刃』8000字レビュー」(ねとらぼ/最終アクセス2021年5月1日)参照
【注4】『呪術廻戦』1巻、101頁
【注5】同7巻、119頁
【注6】同2巻、40頁
【注7】 例外として、一定以上の呪力さえあれば後天的に身につけられる術式(「シン・陰流」など)などがある。
【注8】『呪術廻戦』1巻、101頁
【注9】『呪術廻戦』1巻、99頁
【注10】なお余談ではあるが、伏黒恵というキャラクターのイメージソースの一つは、おそらくヤマシタトモコ『サタニック・スイート』(講談社)の主人公・伏黒覚(ふしぐろ・さとる)だと思われる(『呪術廻戦公式ファンブック』において、作者はヤマシタトモコのファンであることを公言している)。同作は先天的な特殊技能を引き継ぐ家系――俗称「魔法使い」――の一人娘・覚が、父親の残した借金を返済するために悪徳金融企業で働く短編である。覚は父親に捨てられるが、「生きてくことのほうが大事」(76頁)と達観しており、父の責任を押し付けられた「自己責任」の地獄をあっさり受け入れて見せる。しかしやけを起こした借主に殺されかけたことで押し込めていた感情が爆発し、禁忌とされる「呪い」(!)の魔法を発動させてしまうのだ。借金という「不幸」に他人を巻き込む人間を「自業自得」と言って心底憎みながら、一方では「自分がかわいそうだと思っちゃだめで… 誰も憎んでもだめだったら…… […]どうやってがんばればいいのかわかんないもん……」(100頁)とこぼす覚は、自己責任論を受け入れて大人になるよう強いられた子どもの葛藤を持っている。
【注11】『呪術廻戦』2巻、43頁
【注12】同1巻、145頁
【注13】同1巻、146頁
【注14】同15巻、11頁
【注15】同4巻、97頁
【注16】片岡大右氏のTwitter https://twitter.com/disk_kat/status/1329941883867435010参照(最終アクセス2021年5月21日17時)
【注17】『呪術廻戦』3巻、59頁
【注18】同12巻、71頁
【注19】國分功一郎、熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(新曜社)、112頁
【注20】同116頁
【注21】『呪術廻戦』1巻、84頁
【注22】同1巻、103頁
【注23】『呪術廻戦公式ファンブック』、182頁

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