重箱の隅から

いつの間にか忘れられてしまうこと③

 はじめに、前回(4月号)の訂正しておかなければならない文章について触れることにしよう。
 もちろん、「王族といった権力者の血統に生まれついていなければなれない(王や女王の母親にはなれても)王国と異なり」云々という記述の、極めてわかりやすい誤ちである。なぜ校正の赤が入らなかったのかと奇妙に思うものの、書き手のジェンダー・バイアスの筆のすべりであるのは間違いのないことだ。現に、つい最近死んだイギリスの女王の夫であるフィリップ(女王の配偶者という意味の女王配偶、、、、という言い方があるらしい)は、次の王になる王子の父親であることを、これはジェンダー・バイアスというより老化現象かもしれないが、すっかり忘れていたのだ。
 どっちにしても(日本の皇位継承は別として)男であれ女であれ、血統ではなく婚姻によって王や女王の親にはなれると書くのが正しい。
 さて、幼稚園や保育園の幼児がやるようなレベルのお遊戯や作業を、強制的とまでは言わないものの義務、、というか学習、、というか、病状の進行を抑えられる治療の一つである回想法、、、が行われるデイケア施設を、患者たちに推進していただろう、認知症の専門医で、それまでは痴呆性老人(ボケや耄碌や恍惚とも呼ばれていた)と、不適切にも称されていた病気の命名者の一人でもあった長谷川和夫医師は、テレビ・ドキュメンタリーの画面で見るかぎり、日頃のおだやかな表情とは違う固い表情と声で、デイケア施設には行きたくない、ああいうことは僕は嫌いなんだ、と、極めてもっともなことを家族に向かって抗議する。
 自らがドキュメンタリーの主役として放映されること(それはデイケア的なセンスのNHKによって撮られているのだ)を意識したうえでのふるまいと言うわけではなく、病気であるなしに関係のない本当の気持ち、、、、、、なのだろう。長谷川医師は、認知症であるなしに関係なくベートーヴェンの「悲愴」と読書の好きな、本に囲まれた自分の書斎での静かな思考の時間を好む老人なのだから、いくら、昔のことはよく覚えていると言われる認知症であれデイケア施設で、お手玉や折紙や童謡を皆で一緒にやるのは苦手だろう。そうした幼稚園・保育園レベルの童謡の歌唱教育について、タモリは、園児だった当時、なんでこんな幼稚なことをやらされるのだ、、、、、、、、、、、、、と思っていたと発言していたことがあった。園的教育、、、、の音楽環境は現実とかけ離れて、いわば浄化=幼稚化されているのだ。
 長い時間――医者として、キリスト教の信者、家庭の人、そして認知症の患者として生きた――がいくえにも折りたたまれた経験を通して発見されたものとしての病、、、、、、、、、、、、が語られているにしても、病気というものは、常にさまざまな比喩として語られることになるだろう。長谷川和夫医師の本の『ボクはやっと認知症のことがわかった』というタイトルには、もちろんドキュメンタリーの映像に流れる、ぼくはああいうことは嫌いなんだ、という嫌悪感、、、とも言える率直な言葉のニュアンスを読み取ることも出来るだろう。それらの言葉は認知症になることを潜在的に恐れる老人たち(と、その面倒を見るという重圧に耐えることになるかもしれない家族)に、共感を持って受け止められるはずのものだろう。
 昔のこと(幼年時代に属している)はよく覚えているからと言って、なぜそれを特権的にお手玉や童謡を歌ったりすることに結びつけるのか、長谷川医師は認知症になるまで、そうしたことが「わからなかった」のだ。
 いわば、一人の人間にとっての回想されるものの持つ多様さ、、、、、、、、、、、、、、とでもいったものを無視した、年寄りたちの体験を世代的にひとくくりにするある思い込みによって教育的、、、なデイケア施設が成立しているのならば、教育、、というものは幼稚園や保育園も同じ平等と均一化ということになるわけで、そこから落ちこぼれる子どもや老人が、必ずあらわれる。
 その一人であった幼児のタモリは、幼稚園での過度の幼稚さが恥ずかしい歌やお遊戯と距離をとるために、その頃から眼には見えない濃い色のサングラス(ひねくれた、とも言われそうな)を着けたのであり、長谷川医師は、認知症になってはじめて、人を馬鹿にしているかのような子ども扱いのデイケアが嫌いだということを「わかった」のである。
 ところで、少し横道に逸れるのだが、園児というものは、スモックと呼ばれる木綿のゆったりしたシャツのようなものに、白い丸襟、、のついた制服を着せられている。何年か前までは男女で色分けされていたような気がするが、園児たちより、子どもを送り迎えする母親たちが騒々しい園の門前を見ていると、現在は男女ではなく冬用のネイビー、夏用の水色に分けられている園もあるようだが、変わっていないのはスモックのシルエットと白い丸襟である。白いステンカラーやシャツ襟ではなく、白い丸襟というものは、姉に言わせると、男は卒園後一生身につけることのないアイテムではないかと言うのだ。60年代後半のピーコック革命に始まった、サイケデリックと混じり合うことになる男性ファッションには、白い大きなウサギの耳のように垂れた先のほうが丸い襟の派手な色彩のシャツがあったし、今でも襟先が丸くカットされた柄物のシャツを着るタイプの男はいるけれど、それらにはネクタイとスーツがセットされていて、あの形だけは無性的な園児用スモックとは違うし、あれを2年だかの間着せられたのが、一種のトラウマになっている男というのがいるのではないか。タモリは幼稚園でスモックを着せられ、さらに幼稚な恥ずかしい歌に耐えていたのだろうか、と言うのである。
 前世紀初頭まで、多くの社会で男の幼児は女装させて育てる風習があった。男に生まれたという幸運、、を妬んだ超自然の存在が(多分、女に擬せられた)命をねらうし、パンデミックほど大規模ではないまでも、細菌による感染症だって毎年、幼い命を唐突に奪うのだから、超自然的悪意の目をくらますために、女の子の格好をさせるのだ。サルトルは鏡の中で自分の斜視を発見する年齢になるまでカールした肩まである金髪だったし、ルノワールの息子の幼いジャンは、肩までのカールをした金髪の頭で絵のモデルとして気を散らさないように、女の子のようにラクダのぬいぐるみの服を縫い、髪を伸ばしてヒダ・スカートのセーラー服を着た幼年時代の写真のコメントに、1915年生まれのロラン・バルトは「プルーストの同時代人?」と、プルーストがその頃『失われた時を求めて』を書いていたことの同時代性、、、、を示してみせるのだが、すべての病同様、苛烈な感染症に対する歴史的な差別とまでは言わないまでも、差別と偏見の対象であった認知症(差別的な言葉ではないにしろ、とても科学的、、、とは思えないまぎらわしい命名であることは確かだ)に話を戻すことにしよう。
 朝日新聞の「介護とわたしたち――2025年への課題」という特集記事(’20年12月13日)には、「認知症の人の数、、、患者、、ではなく、と書かれていることに注意。傍点は引用者による)が600万人以上と推計される中、国が認知症施策推進大綱で掲げた柱の一つが「共生」だ」が「一方で、岩盤のような偏見は今も社会のあちこちで見え隠れする」と記事を書きはじめる。「認知症の人と家族の会」の家族会員の一人は、新型コロナウイルス感染症への偏見は認知症とも重なる課題だと言う。「どちらも、誰もがなる可能性があり、決して本人のせいではない。否定的に受け止めるのではなく、なっても安心して暮らせる方向につなげることが大事ではないか」
 そのとおりではあるけれど、それはわざわざ病気を選ばずに言えることのはずだ。どちらも誰もがなる可能性があり、決して本人のせいではない、、、、、、、、、、、、病気がある一方で、たとえば生活習慣病、、、、、と、その原因は個人の自己責任の範疇にあると、執拗と言おうか過剰に暗示、、されたり明示、、される病気(かつて野坂昭如は、この病名について、全部お前の悪しきデタラメな生活習慣のせいだと言われているようだと書いていた)があることを認めた上での、本人のせいではなしに罹患したにもかかわらず偏見にさらされる病(あえて、やまい、、、、とやまと言葉がおどろおどろしい印象の言葉を使うことにしよう)があり、それはどうやら、1946年に世界保健機関(WHO)が定義した「健康」の概念に発しているらしい。たとえば、≪健康優良児≫を表彰する制度があり、子どもの頃、周囲にそういう子どもがいたかどうか記憶にはないのだが成人した後年、元健康優良児だったという人物は見たことがある。それはそれとして、生活習慣病という言葉が定着する以前に、老人たちが医療費が無料であるのをいいことに、、、、、、必要のない薬品をもらったり、仲間同士で病院にたむろして時間をつぶしていると批難する風潮があり、そうした事態から脱却するための「国民健康づくり対策」が当時の厚生省から提唱されたのが78年で、「自分の健康は自分で守る」自覚が重要とされたそうだが、(’20年10月10日朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄)、こちらとしては年齢のせいもあって、まるで馬耳東風だったが、ふと思い出して『昭和家庭史年表』を開くと、77年のデータの一つとして「良い医師、悪い医師」のアンケート調査(中川米造「よい医師像」『医学教育』第8巻2号)が載っていて、病気にかかれば、私たちは、とりあえず医師と出会うことになるのだが、そのアンケートの翌年に厚生省は「自分の健康は自分で守る」自覚が重要だと言っているものの、認知症とコロナ(知的人物はこうした曖昧な通称、、を使わず、COVID-19とちゃんと病名を書く、と、いとうせいこうはパオロ・ジョルダーノのコロナ本の書評の中で断言していたが)は、どちらも誰もがなる可能性のある、決して本人のせいではない病気なのだ、という言説が存在する。それはどこか、なんの罪も科もない者に降り掛かった災厄を嘆く言葉に似ていて、それでは罪や科(とが)のある者に同じ災厄はふりかかっていいのか、といういかにも幼稚な疑問を呼び起こすのだ。

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