ちくま新書

神仏習合と廃仏毀釈

何を「判然」とさせたかったのか?

ちくま新書2021年6月刊畑中章宏『廃仏毀釈』の「はじめに」を公開いたします。明治新政府の神道国教化政策に依拠しておこなわれた仏教排斥運動の実際はどんなものだったのか? まずはこちらをお読みください。

†「廃仏毀釈」のイメージ

「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」とは、明治新政府の神道国教化政策に依拠しておこなわれた仏教排斥運動であり、神仏分離令の布告・通達にともない、仏堂・仏像・仏具・経巻などにたいして各地で起こった破壊行為である。その契機となった神仏分離令とは、慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までのあいだに相次いで出された太政官布告、神祇官事務局達など一連の布告・通達の総称で、これらにもとづき、それまで「神仏習合」の状態にあった神社仏閣において仏教色の排除と破壊がおこなわれたのだった。

 廃仏毀釈はこれまで、神職や民衆の手で寺院の堂塔に火が放たれ、仏像・仏具が打ち壊されるといった情景でイメージされてきた。こうしたイメージのもとになる史料や伝聞が少なからずあることから、暴動と破壊をともなう騒乱だったかのようにみられてきたのである。なお「廃仏毀釈」の「廃仏」は文字どおり仏教・仏法を廃すること、「毀釈」の「毀」は壊す、あるいは悪口を意味し、「釈」は釈迦のこと、釈迦の教えのことで、「仏を廃して釈を毀る」と訓読する。

 専門書はともかく、一般書やテレビ番組などによって、「全国で仏像・仏具が破壊された」、「仏教が抹殺された」といった言説が広まり、石仏の首がはねられ、仏像が火にくべられたり、野ざらしにされたりという映像が、その証拠として流布してきている。廃仏毀釈は仏教の側からみたとき、筆舌に尽くしがたい蛮行に違いなかったが、それまで信仰してきた仏像を破壊することに人々にためらいはなかったのか。また、伝聞などにもとづいて誇張された「廃仏伝承」というべきものが、事実であるかのように流通してしまっているという事態もある。

†「習合」という言葉
 廃仏毀釈に至るまで、神仏分離以前の時代の神と仏の関係は、一般的に「神仏習合」という言葉で表される。神仏習合とは、日本列島固有の神(「神道」という名で宗教化される以前の「カミ」と呼ぶべき観念も含めた)にたいする信仰と、6世紀に大陸から伝来した仏教とが密接に結びつくことで成立していった状態・現象を指す。たとえば神社の本殿に仏像を祀る、仏教寺院の境内に神殿を構えるといった状況である。こうした近代以前の神仏関係を、かつては「神仏混淆」という言葉で説明することも少なくなかったが、近年では日本列島以外の地域における土着信仰と世界宗教のあいだで起こった「混淆」、「シンクレティズム」と区別するため、「習合」を用いることが多い。しかし、「習合」という言葉も曖昧であり、この現象のなかにも振り幅がある。また、神の側からは仏と距離を取ろうとしていたという、「神仏隔離」説を唱える研究者もいる。

 民俗学者の高取正男は『神道の成立』(1979年)で、伊勢における神宮寺(神社に附属して建てられた仏教寺院)廃絶の事例などから「神仏隔離」という概念を提示した。神の祭祀者は仏教の影響を排除する意思を持ち、仏と一定の距離を取ろうとして、そのことが宗教としての「神道」の自覚を促したというのである。このように、神と仏の関係は一筋縄ではいかず、多様な関係のありかたが神仏分離の際の混乱にも影響したのではないかと考えられる。そのため、近代以前までの神仏関係については、「習合」ではなく「共存」とするぐらいのほうがふさわしいとも思えるが、本書でも一般的に浸透している「神仏習合」の語を用いてその実態をみていくことにしたい。

†「判然令」の意味
 幕末維新に相次いで出された、神仏関係を整理するための布告・布達を総称する「神仏分離令」についても、「神仏判然令」という呼びかたがある。神と仏は、「分離」することを要請されたというより、神と仏を「判然」とすることを強制されたという見方である。つまり布告を出した側でも、それまでの神仏関係は単純に「分離」することはできないものだと考えており、神仏の境界上の、曖昧な存在を明確にするようにと命じたと考えられるのだ。

 神仏分離に伴い廃仏毀釈と呼ばれる破壊行為があったことは、この数年のあいだで広く知られるようになってきた。その要因のひとつは、明治維新150年を契機に廃仏毀釈を取り上げた書籍が何冊も刊行され、テレビなどでもこの過渡期を題材にした番組が放送されたからである。しかし、そうしたものでは廃仏毀釈について、仏像・仏具をむやみに破壊したというイメージを植え付け、伝承の域を出ないような記録も批判的に取り上げることなく、神道国教化を目的とした乱暴狼藉だったという一面的な捉えかたをしたものが目立つのが実情である。

 歴史学者の安丸良夫が昭和54年(1979)に『神々の明治維新 ―― 神仏分離と廃仏毀釈』を発表した際にも、廃仏毀釈にたいして一方的な批判は差し控えられていた。変革の主体となるべき民衆が、ある場面では反動的・暴力的な行為をするのはなぜなのか。安丸の廃仏毀釈にたいする関心と問題意識は、こういった視点に根差していたはずである。しかし近年出版された関連書をみると、仏教抹殺の暴挙だったというセンセーショナルな打ち出しが目につき、その原因や問題点の追究は軽んじられているように見える。

 そもそも神仏分離の前提となった神仏習合とはどのような現象だったのか、廃仏毀釈は列島のどこでも起こった一般的な出来事だったのか、仏教の側に原因はなかったのかといった疑問が、それらの著作では深く問い直されていないのである。

†本書の構成
 こうした疑問などにも言及しながら、本書では以下のような構成で「神仏習合」から神仏の「分離」、「判然」を跡づけ、廃仏毀釈に至った支配層と民衆の意識と、その結果もたらされたことの内実を明らかにしていくつもりである。

 序章では、一般的に「神仏習合」と呼ばれる神仏の共存状態が、いつ頃から始まり、どのような変化をしながらその状態を維持し、幕末維新に至ったかを素描する。

 第1章から第5章では、神仏判然令の発令によって日本各地で起こった「廃仏毀釈」のさまざまな様相をみていく。日吉社・薩摩藩・隠岐などにおける極端な廃仏行為、奈良・京都・鎌倉など古都で起こった廃仏の実態、伊勢・諏訪・住吉など神の聖地の変貌、山岳信仰の霊場における「権現」号の廃止とそれにともなう変革、神と仏のいずれにも分類しえない日本固有の「牛頭天王(ごずてんのう)」を待ち受けていた事態などである。ここでも従来の見方にとらわれず、伝承と事実を選り分けるとともに、伝承が生まれた理由を探っていきたい。

 最後に終章では、神仏分離、廃仏毀釈のその後についてみていく。分離は完全に果たされたのか、神社にあった仏像・仏具は徹底的に破却されたのか。そして、廃仏毀釈の波を乗り越えてきた仏像や堂塔を紹介しながら、急速な近代化のなかで生起した民衆の意識の変化について考えていきたいと思う。