十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス

第2回 同調圧力に負けるとき

寺子屋ネット福岡の代表として、小学生から高校生まで多くの十代の子供たちと関わってきた鳥羽和久さんの新連載第2回です! この連載では、十代の子供たちが学校や家庭で直面する諸問題について、見て見ぬふりをせずに根掘り葉掘り考えます。

この連載は大幅に加筆し構成し直して、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)として刊行されています。 刊行1年を機に、多くの方々に読んでいただきたいと思い、再掲載いたします。

うちの教室に通っている、ある生徒の話です。

Sくんはサッカー部の中学2年生です。土曜日に隣の校区の中学校で練習試合がありました。そのとき、彼らのチームは5-0で負けてしまいました。もう完敗です。

負けたからボウズに……

それで、試合直後の反省会のときに、3年生のキャプテンが「僕は自分の弱さを反省してボウズにします」とみんなの前で言ったんですね。すると、たちまち場の空気が変わって、他の3年生たちも「僕もボウズにする」と次々と後に続くわけです。

1つ下の2年生たちは、思わぬ展開に震え上がります。試合に出たのは2年生の中では2人だけでしたから、3年生のように「反省」する十分な動機を持たない子が多いんですね。それでも、その場の空気(こういうのを「同調圧力」といいます)におされて2年生の最初の子が「僕も応援のときに少しサボっていたからボウズにします」と殊勝(しゅしょう)にも理由までつけてボウズ宣言をしたわけです。となると、その後も続くしかない。他の2年生たちもみんな異口同音(いくどうおん)に「ボウズにします」と宣言が続きます。

Sくんは2人しかいない2年生レギュラーのうちのひとりで、ボウズ宣言を続ける部員の輪の最後(最初にボウズ宣言をした3年生キャプテンの隣)の位置にいました。巻き毛が似合うSくんは、自分の髪の毛、髪形にこだわりがあったんですね。とは言っても、そのこだわりを日ごろから強く意識していたわけではありません。ほとんどセットもしていないのに「おしゃれだね」と言われてしまう自分の髪のことが、なんとなく気に入っていたんです。

生まれてこのかた一度もボウズにしたことがない彼は、ボウズになる自分が想像できなかったし、練習試合で結果を残せなかったからボウズにするという思考回路が理解できませんでした。とても乱暴なことに思えたんです。だから、最後に自分の番が回ってきたときに、「僕はボウズにはしないと思いますが、今回の反省を生かして、きっと次はもっといいプレイができるように、先輩たちとがんばっていきます!」と力強く宣言しました。Sくんがそう言うと、他の部員たちは「えっ……」と驚いた後に煮え切らない表情になったようですが、彼の宣言の後に顧問が話をしただけでその日は解散になったそうです。

2日後の月曜日、Sくんはもう1人の2年生のレギュラーの子から伝言を受け、昼休みに2人の先輩(そのうちの1人は例のキャプテンでした)に学校の体育館裏に呼び出されます。嫌な予感でいっぱいのSくんはしぶしぶ待ち合わせ場所に向かいますが、ボウズ頭になって見た目が豹変(ひょうへん)した2人の先輩の姿が目に入ったとたんにぎょっとして、それだけで泣きたいような気持ちになります。

「お前だけボウズにしないのが、マジで許されると思っとんのか?」「しかもお前は2年の中で実際に試合に出てた2人のうちの1人だよな!?」「試合に出てないやつもボウズにするのに」「2点目の失点はお前のせいじゃないか?」
そうやって先輩たちに追い詰められる形で、Sくんはボウズにすることを約束してしまいます。

その日の部活動で彼はみんなが一斉にボウズ頭になった光景を直視できずに辛い気持ちになっていたのですが、顧問から「どうや、お前もボウズにする気になったか!?」と心ないからかいを受けたことで追い打ちをかけられたような気分になり、もう、いますぐボウズ頭になりたい、でないと僕はこの場にいられないと胸がギューッ押しつぶされるような追い詰められた気持ちになったそうです。

みんな一緒じゃないと許されない世界

私がSくんから話を聞いたのは、その次の日の夜でした。ボウズ頭になったSくんが教室に入ってきたとき、その時点でまだ何も知らなかった私は度肝を抜かれました。いつもおしゃれな髪形をしていた彼がボウズ頭になったことが意外すぎて、その事実をうまく呑み込むことができなかったからです。「どうしたの?」と思わず声を掛けそうになりましたが、彼があまりにも深刻な顔をしていたので何も言うことができませんでした。これは何かおかしなことがあったなと直感しました。その後、数学の授業が始まったのですが、授業のさなかにSくんが何度も目に涙を浮かべているんです。これはただ事ではないと思いました。

全ての授業が終わったあと、Sくんから事の顚末(てんまつ)を聞きました。彼は必死に涙をこらえながら話してくれました。そして、実際にボウズにしてみたのはいいけど、ボウズ姿の自分がイヤで仕方ない、こんな自分の姿が受け入れられないと言ったとたん、とうとう泣き出してしまいました。とてもかわいそうだと思いました。

もしかしたら、ボウズにするくらい、なんてことない。そう思っている人がいるかもしれませんから、はっきりしておきたいのですが、ボウズを強制するのはれっきとした暴力です。しかも、場合によっては殴られるよりもずっと酷(ひど)い暴力です。

人は自分に対する内的イメージを持って日々を生きています。それは自己同一性(=自分が自分であるという一貫性が保たれること)に関わっています。自分が自分だなんて当り前じゃないか、そうあなたは思うかもしれませんが、そうじゃないでしょう。あなただって、いつも自分が自分であることを確かめずにはいられないはずです。だから、インスタのイイネの数なんかで自分の価値をはかろうとするし、占いで「それ当たってる!」と感じたときに、まるで自分の存在の輪郭(りんかく)を確かめられたような快感が走ったりする。あなたは、自分が自分であるということがいかに不安定な土台に立っているかを知っているからこそ、いつも安定を探し求めているんです。

そのような自己像の安定に大きく関わっていることのひとつが、自分の外見に対する内的イメージです。だから、外見をイメチェンすると性格まで変わってしまう人がいて、そういう人たちは、高校デビューとか、大学デビューとか言われたりします。これって外見を変えたことで文字通り自分がチェンジした、生まれ直したということなんです。自分という存在がめくれたということなんです。

じゃあ、ボウズになったことがSくんにどんな意味をもたらしたかというと、それは内的自己像の崩壊です。「こんな自分の姿が受け入れられない」と言って泣いた彼は悲しいからではなく、怖かったから泣いたんです。他人の暴力によって自分の外見を変えられてしまうというのは、場合によってはその人のアイデンティティの基盤を揺るがせてしまう。それくらい酷いことなんです。

噓つきの大人にならないために

それにしても、試合後の反省会のとき、なぜ先輩たちも2年生たちも次々に「ボウズにします」と宣言したのでしょうか。その理由は簡単で、ボウズにすることよりも、連帯からはじき出されることのほうがずっと怖いからです。別の言い方をすれば、ボウズにしてでも手に入れたいものがあったからです。

私は、正直、このときに「ボウズにします」と言った彼らに対しては許せない気持ちが拭(ぬぐ)えません。怖かったんだったら仕方ないよ、そう、声を掛けたい気持ちもありますが、それよりもどうしても許せない気持ちのほうが強い。だって、彼らが負の連鎖を、暴力のバトンを繫(つな)いだことは紛れもない事実なんですから。

しかも、連帯意識というのは麻薬ですよ。いったんグループ内にそれが出来上がってしまうと、その輪に入れなかった人間をみんなで平気な顔して蔑(さげす)み、踏みつぶしてしまうのです。あなたは別のやり方でいいよ、とは誰も言わない。なぜなら、せっかく自分が犠牲にしたものが無駄になるからです。自分もみんなも我慢しているのに、輪に入れないあいつはなんてワガママなんだというふうに見えてしまう。集団の暴力性っていうのはいつもこうやって発揮されるんです。ワガママという見方が独善的で偏っていることなんか気に留めることなく、多数派の自分を善の側に置いてしまうのです。

でも、暴力の連鎖に加担した彼らには、そのとき何が起こったのかについて目を逸(そら)らさずに見てほしいのです。目を逸らすことに慣れてしまうから、いつの間にかあなたたちが嫌いな噓つきの大人になってしまうのです。だいたい、同調圧力というのは大人都合の文化でしょう。そういう大人が喜ぶものを感じ取って、大人に媚(こ)びへつらって旨(うま)いものを手に入れようとするのってほんとダサいですよ。

あなたは、大人が噓をついたときに、それを見破ることがあるでしょう。そんなときあなたは、噓は罪だと感じているでしょう。だから、あなたはそんな汚れた大人が嫌いなんです。その気持ちを手放さないでください。多くの人が、それを大人になる途中のどこかで放り投げて捨ててしまうんです。それを意地でも守り抜くことが、ずるい大人にならないための大切な方法です。完璧に潔癖(けっぺき)じゃなくてもいいですよ。自分を守るために薄汚れてしまうことは人間なら誰だって多かれ少なかれあるでしょう。でも、そのときの気持ち、噓は罪で汚いんだという直感を決して忘れないでほしいし、諦(あきら)めてしまわないでほしいのです。

Sくんはその2日後に会ったときにはすっかり落ち着きを取り戻していました。彼の様子を見ながら、彼はもう髪形のことについては触れられたくないのだろうと思いました。こういうとき、彼に同情して言葉を掛けることは彼に何ももたらさないどころか、むしろ彼を惨(みじ)めな気持ちに逆戻りさせてしまう可能性さえあります。だから、私は彼にそれ以上余計な言葉を掛けることはしませんでした。

Sくんは傷ついたその後に、「弱いままでいいわけがない」となんとか自分を奮い立たせたのでしょう。そして、今回自分の身に降りかかったことを受け入れたのでしょう。でも、こうして傷つきの後にそれを受け入れることを通して感情を麻痺(まひ)させていくことを「大人になる」と言うのだとしたら、こんなにつまらないことはないのです。

※本連載に登場するエピソードは、事実関係を大幅に変更しております。
 

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