ちくま新書

「考え方」を知れば、英語はもっとうまくなる!

学校、ビジネス、英会話――こんなに勉強してるのに、いつまでたっても自然な英語がしゃべれないのはなぜ? それは日本語にはない英語独特のコミュニケーション文化を理解していないから。そんなあなたに英語コミュニケーションの核心をわかりやすく解説する『英語の思考法』より、「はじめに」を公開いたします!

はじめに

牛タンいくつ?
 アメリカ在住のある日本人女性Aさんの話。おいしいものが大好きな彼女は、ある日地元の友人からおいしいと評判の牛タンの店があると聞きつけて、いてもたってもいられず車を走らせた。
 牛タン(tongue)は日本の焼肉店などでも人気のメニューで、牛タン料理の専門店があるほどだが、アメリカのこの店はレストランではなく、お肉屋さんのように牛タンを売っていると聞いていた。
 店に入ってさっそく牛タンを注文すると、店員のおじさんに“How many?”と訊かれる。Aさんは、「“How many?”… ? いくつ?ってどういうこと? 何皿ってこと? 何パック?」とよく理解できなかったが、とりあえず適当に“two”と答えると、なんと、おじさんは巨大な牛の舌をまるごと二つ、ドンと出してきた。
 初めてこれを目にしたAさんは腰を抜かすほど驚いた。たしかにこれは牛の舌二つだ! アメリカではこんなふうに牛タンを売ってるんだ! と舌を巻いたという(タンだけに)。
 大半の日本人は、牛タンと言えば、食料品店や飲食店で見るようなスライスした牛タンをイメージするだろう。グラム単位など重さで売るならわかりそうなものだが、スライスしたものを一枚、二枚で売っているとは考えにくいので、“How many?”と訊かれてAさんが当惑するのも、日本人としては無理もない。
 このエピソードは、のちにこの本で詳しくお話しするが、(アメリカの肉屋さん事情ということではなく)「数」(単数/複数の区別)の概念がいかに英語によるコミュニケーションの核心にあるかということの一端を示している。

Excuse me のme は私一人!(よく考えたら当たり前だけど)
 “Excuse me.”(すみません)は、日本人でもよく知っているフレーズだ。テーブルなどに同席している人に対して途中で席を立つ時や、人がいるところを通り抜けたりする時などに使う。
 しかし、英語ネイティブをよく見ていると、カップルなどが二人で席を立ったりするときは、ちゃんと“Excuse us.”と言っていることに気づく。日本語の感覚で言えば、自分一人のことを「すみません」というのか、自分と同伴者の両方を含めて「すみません」というのかの区別にほとんど意識がいくことはないだろう。
 excuse は本来「許す」ということだが、英語の話し手は「自分一人を許して」と言っているのか、「自分とこの同伴者の二人である私たちを許して」と言っているのかをはっきり区別しているのだ。これは言われてみれば当たり前のことのようだが、日本人にはかなりめんどくさい区別だ。
 筆者はかつてアメリカで、英語ネイティブらしき(優しそうな)人たちがいるところを、一人で“Excuse us.”と言って自転車で通り過ぎる実験を何度か試みたことがある。すると、彼(女)らは必ず怪訝そうな顔をして筆者の他に誰かいるかを目で探す。一見すると筆者一人しかいないので、英語ネイティブには不可思議に映ったのである。彼(女)らがme かus かを反射的に判断している証しである。
 この壮大な実験にはオチが用意してあって、筆者はクマのぬいぐるみをおぶっていたので、彼(女)らは通り過ぎる筆者の後ろ姿を見て失笑するのである。ほぼ例外なく失笑する。それを視認して実験を終える。とてつもなく勇気のいる実験だった。研究者もこんな試練に耐えねばならず、けっこうつらいのだ。

文法とコミュニケーション
 本書でお話ししたいことの一つは、一見このように細かくて勉強するとめんどくさそうな文法が、実は英語を話すこと、英語のコミュニケーションと深く結びついていることだ。
 「日本の英語教育は、文法ばかり勉強して「英会話」ができない」という話をよく耳にする。親のカタキのごとく悪しざまに言う定型句だ。だが、それは半分合っているが半分間違っている。英語教育論は本書の目的ではないが、文法や慣用句など、教育現場では「暗記物」とされそうなことがらが英語のコミュニケーションの根幹に関わることをわかっていただくのが本書の目論みだ。
 英語の文法や慣用表現は「英会話」と核心においてつながっている。むしろ、この英語の核心を理解しなければ、やみくもに「英会話」修行の旅で放浪することになる。なにごとにもコツというものがある。それを体得することが上達への最短ルートだ(近道というものがあるかは疑問だが)。本書はその英語の「わかりかた」の道案内である。もう一度言おう。文法や慣用表現はコミュニケーションとつながっている。
 文法とはたんなるルールで、コミュニケーションとは別次元のものだと考えがちだ。学校の授業でも文法の時間と「英会話」の授業が別だったりする。そのおかげで、この二つが別物と考える発想が根付いている(その学び方自体は必ずしもまちがっているとは言えないが)。
 コミュニケーションのしかたには「文化」のようなものがあって、文法にはそれはないと思いたくなるかもしれない。文法は殺伐としたルールであって、鬼のごとく対峙も退治もしなくてはならないものだ、「文化」の香りとは切り離されている、と思いがちだ。
 あらかじめ言い訳がましく言っておくが、たしかにそういう面もある。しかし、英語の文法に潜む「英語の文化」を無視するのはいかにももったいない。英語はいまや世界中でいろんな人たちが話す言語になったが、そもそもの英米の文化(アングロサクソンの文化とでも言っておこう)が長い年月を経て染みこんでいる。そう思えば文法にも人間の血が通っているように思えてくるはずだ。