ちくま新書

「考え方」を知れば、英語はもっとうまくなる!

学校、ビジネス、英会話――こんなに勉強してるのに、いつまでたっても自然な英語がしゃべれないのはなぜ? それは日本語にはない英語独特のコミュニケーション文化を理解していないから。そんなあなたに英語コミュニケーションの核心をわかりやすく解説する『英語の思考法』より、「はじめに」を公開いたします!

英語には英語の文化がある
 いま「国際英語」という言い方をする時には、英語から英米色を払拭しようという考えが基本だ。英語が母語の人たちですら、もはやアングロサクソン系ではない人はゴマンといる(実際、5万どころじゃない)。「英米人」という括りもいまや時代遅れ感がある。それこそ日系の英米人もいる。
 また、「日本人も英米のネイティブたちの英語をモデルにしなくてよい、理解し合えるなら日本人英語でOKだ」という考えがある。それは、政治的、教育的には100%正しいと思う。英語が国際語であることも腹立たしいが、英米人のようにうまく英語を使えないことで落ち込んだりすること自体も理不尽すぎて涙なしでは語れない。
 ただし、これと英語を身につけようとすること(「勉強」という言葉はあまり使いたくない)は別だ。英語を身につけるには、どうしても英語のコミュニケーションの文化を身につけざるを得ない。少なくとも理解しなくてはいけない。いや、理解しないとはなはだ非効率だ。英米人という括りが難しい今日でも、英語にはざっくり言ってそういう文化ともいうべきものが根付いている。
 英語を話しつつ、心は日本人、振る舞いも日本人、コミュニケーションのしかたも日本人的というのはある程度ありうる(筆者もそれはアリだと思う)。しかし、英語を使う以上、完全にはそれは無理だ。英語という言語には、分かちがたく英語のコミュニケーションの文化が染みついているからである。
 本書はそうした英語によるコミュニケーションの文化の核心を理解し、正しく「わかり」、身につけていただくのが目的だ。文法や慣用表現をやみくもに暗記しようとするのは正しくないし、効率が悪い。それらがコミュニケーションとつながっているということを理解すれば文法や慣用表現を覚えようとするモチベーションにもなるだろう。出てくる例文や表現には、それほど変わったものはない。どちらかというと英語としては基本的な表現が多い。これもその目的のためである。

英語の「タテマエ」
 コミュニケーションの文化と言ってもそんなに大げさなものではない。要するに人と人が関わる慣習だったり、「タテマエ」とすることだ。「タテマエ」というと日本の専売特許(古い?)と思っている人もいるかもしれないが、それは違う。どのコミュニケーション文化にも「タテマエ」はある。ただ、みんなそれぞれ違うだけだ。自分たちの「タテマエ」は無意識になり、異なった文化の「タテマエ」はだいたい不可解に思えたり、理解しづらかったりして憎しみすら感じたりする。この本は英語の「タテマエ」についての本である。
 コミュニケーション文化は生活のいろいろなところに関わっている。例えば、英米系の人たちは、全般に「子離し」の時期が日本より早い。典型的なのは、何歳ぐらいで子どもを一人で寝かせるかについての想定が、誰がどう伝承するのか、文化によって異なることだ。「タテマエ」とはそういう文化的な想定である。
 「子離し」のような習慣はどこにもそのルールやガイドラインが書いてあるわけでもないのに、同一文化内ではだいたいよく似ている。「〇歳だからそろそろ一人で」にも「タテマエ」がある。不思議なものだ。英米では子どもはだいたい1歳くらいで母親を離れて一人で寝かせられるようになるという。生まれてすぐに最初から親とは一緒に寝かせないという家庭も珍しくはないらしい。
 日本人から見ると冷たい感じがするかもしれない。実際、一緒に寝る(親子三人川の字、ベッドシェア)ほうが情緒の安定につながり、日中の自律性が高まるという研究や議論もあるようだ。ただ、「文化」を脱ぎ捨てるのはむずかしい。それくらい生活に染みこんでいる。
 欧米では子どもをベビーシッターに預けて、夫婦で夜出かける習慣があることは日本でもそこそこよく知られている。だが、親子関係がより緊密(と考えられる ――どちらかというとベッタリ?)な日本人にはなかなか真似ができない。両親とも働いていて仕事のあいだは保育所などに預けるのは日本でもごく普通だが、ベビーシッターに子どもの面倒を見てもらって夜夫婦で出かけるのという話はあまり聞かない。
 日本の場合、そんなことをすれば、なんとなく親に「罪悪感」のようなものがあるように思う(その是非はともかく)。英米では、「子どもは子どもで独立しているべきだし、大人は大人で独立して楽しまねばならない」という考え方がある。それも「タテマエ」だ。むろん家族で楽しむという楽しみもあるが、それはまた別の話である。

「英米人」という一般化について
 ここで、先に少しふれた問題に立ち返ろう。すでにここまで読んでくださって頭がモヤモヤとくすぶっていらっしゃる方もいるのではないかと思う。
 おそらく一つは、「英米人」なんてひとくくりにできるのか?ということだろう。イギリスにもアメリカにもいろんな背景の人たちがいる。アジア系だっている。例えば、ロンドンの人口比で言うと、いわゆる白人はいまや半数を切っている。
 本書で想定する「英米人」とは、ざっくりとヨーロッパ系英米人(白人)、特にイギリスにルーツを持つ人たち(アングロサクソン系)だ。この人たちの英語は本書で言うところの英語の核心のルーツでもある。しかし、実際の「英米人」はそういう人ばかりじゃない。
 もう一つのモヤモヤは、仮に「英米人」をアングロサクソン系の英米人に限ったとしても、その人たちもいろいろなのではないか、ということだろう。そんなにおおざっぱにひとまとめにしてよいのか、と。もちろんイギリス人とアメリカ人とでは気性が違うと言ったりするし、それ以前にそもそも個人によってずいぶん違うのではないか。それに、英米文化では「個」を大切にすると本書でも言ってるじゃないか、と。
 これらに対する答えは二つある。
 一つは学習効率のためにはある程度の一般化が必要ということである。どこの文化の人だろうが、いろんな人たちがいる。個人差、個性があるのはもちろんだ。ただ、一般的にある集団、文化、国の人たちは、こういう時はしばしばこうする、こうする一般的な傾向がある、ということを知っていれば、接する側もある程度予期することができる。そして、それによってコミュニケーションがスムーズになる。
 もちろん、どこにでも「らしくない」行動をとる人はいるだろう(ぶっとんだやつはいるものだ ―― そしてそういうやつら〔失礼!方々〕が新しい「文化」を創成していくのだが)。しかし、多数の人が繰り返しぶっとんだことを真似しなければ、その一般的な傾向は変更されない。ただし、注意しなければならないことに、それをステレオタイプに落とし込んで、決めつけないことは大切だ。予期することと決めつけることは違う。
 もう一つの答えは、たとえ個人差があったとしても、本書で問題にするコミュニケーションの文化はすでに英語という言語そのものに組み込まれているということである。
 典型的にはイディオム(熟語)だ。イディオムは個人差を超えた文化の集積である。そして、それだけでなく、ここで取り扱ういわゆるイディオム未満の表現群は個人差や個性を飛び越えて慣習化している。それは文法にすら組み込まれている「文化」なのだ。
 英語を使う以上、日本人であれ何人であれ、どんな背景の「英米人」であれ、英語のコミュニケーションのパターンから完全に切り離されることはない。言語とはそういうものだ。言語表現自体にそれを話す人々のコミュニケーション文化が組み込まれている。

本書の見取り図
 ここで、本書の見取り図を示しておこう。本書でいう英語の核心のうち最も重要な二つは、「独立」と「つながり」である。
 そして、この二つから第三の核心「対等」が生み出されているというのが本書の全体像だ。第1~第3章ではこれらの核心がどのようなものであるかを深掘りしていく。
 第1章は「独立」についてで、「独立」と、それと根底でつながる「個」というコミュニケーション文化についてお話する。第2章は「つながり」、第3章は「対等」のタテマエについてである。
 つづく第4章は、それらの話をさらに深掘りしていく応用編である。この三つの核心は、時に相反するものであったり、二面性をもった英語の特質の両面だったりすることを論じる。
 第5章は、実践編として、具体的に、なぐさめ、提案、謝罪、反論、褒め、依頼、断りの言語行動を事例として、さらに英語の核心をよりよく理解していただき、実際に読者のみなさんが英語を使う際の手引きになるように意図したものである。おわりに、これらに関連して英語を含めた言語教育の問題についてもふれたい。
 

関連書籍