ちくま学芸文庫

ありありと描かれた幕末維新の人間模様
小倉鉄樹炉話、石津寛・牛山栄治手記『山岡鉄舟正伝 おれの師匠』解説より

「江戸無血開城」の立役者、山岡鉄舟のあまりにも破天荒な生きざまを描いた正統的伝記。その魅力を、『江戸無血開城 本当の功労者は誰か?』の著者、岩下哲典先生に解説していただきました。

「江戸無血開城」最大の功労者、鉄舟山岡鉄太郎の人となりを知ることができる『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』が身近になった。現代の通用文字に置き換えられて出版されたことで、多くの人に読まれることになるのは、実に喜ばしいことである。

 おそらく鉄舟居士は、「よけいなことをしやがって、解説なんざ書いている不届き者はどこのどいつだ」と泉下で苦り切っているのではないだろうか。

「へい、あいすみやせん、あたしゃ信州の山の中から出てきたものでして、先生のお仕事にほれやしてね。ぜひとも多くの方々に知っていただきたいと思っているんでやんす」   「へんな江戸弁をつかうじゃねえか。まあ、おれのことは鉄樹に聞いてくれ。みんな話したし、あれがおれの世話をしてくれた時期もあったからな。だけど、おれの世話ばっかりさせちゃあ、あれのためによくないから、京都で修行させていたんだが、あいにくおれの胃がんが進行してあの世にいくことになった。鉄樹に逢えなんだのは、おれもあいつ自身も残念だったが、人の命運は定めがたいから、いたしかたないことだよ。まあいい、なんとでも書いてくれ」

『おれの師匠』は、明治十四年から同十九年までおよそ六年間、山岡鉄舟家に内弟子として居候し、鉄舟に近侍して、身の回りの世話をして、後に禅僧となった小倉鉄樹が語った話を、さらにその弟子石津寛が清書して出版を企画していたものだ。ところが不幸にも石津が亡くなり中途になっていた。それを遺族から託された大学教授牛山栄治が自らの調査研究や見解なども書き加えて出版したのが本書『おれの師匠』なのである。山岡鉄舟の正統派伝記である。

 小倉鉄樹は、鎌倉鉄樹庵主で、慶応元年越後国に生まれた人。明治十二年上京し、共立学校で洋学を学び、ついで二松学舎で漢学を修めた。陸軍士官学校進学を希望するがはたせず、明治十四年、鉄舟の春風館道場を訪れ、内弟子となった。六年の内弟子期間を経て、明治十九年、鉄舟の計らいで京都円福寺伽山師に禅を学んでいたが、その途中の明治二十一年七月十九日(鉄舟忌)に鉄舟が亡くなった。鉄樹は鉄舟の死に目には会えなかったのである。その後、禅の道に進み、日清・日露の戦役でも従軍僧を務めた。美濃で修行後、東京中野で一九会道場を設立、青少年の修養の場とした。明治四十一年鎌倉に移ったが、昭和十九年に亡くなった。

 石津寛は、鎌倉時代の鉄樹に私淑し、その薫陶を受けた人物だ。石津は、明治十七年千葉県に眼科医師の子として生まれた。第一高等学校、東京大学医学部に進み、医学生の時、人生に迷い、鎌倉にいた鉄樹の門人となった。その後、石津は再び医学の道に進み、軍医となり軍医学校教官もつとめ、後、牛込で眼科医院を開業した。名医として聞こえたが昭和十一年亡くなった。

 牛山栄治は明治三十二年に埼玉県に生まれ、十六歳のころから鉄樹の薫陶を受けたという。東京高等師範学校や日本大学で学び、同大教授となった。鉄舟にほれ込み、『山岡鉄舟の一生』『春風館道場の人々』『定本 山岡鉄舟』など鉄舟関係の書籍が多数ある。牛山は鉄樹のみならず石津とも相識であった。

 石津が聞いた鉄樹の夜話譚のうち、鉄舟の話以外は『鎌倉夜話』として牛山堂書店から出版され、鉄舟の関係譚が『おれの師匠』として出版が計画された。ところが、それを果たせずに石津が亡くなり計画はとん挫。その後、牛山が石津の妻から託された遺稿が本書『おれの師匠』なのであった。ただし石津の遺稿は完成原稿ではなかったため、牛山じしんの調査研究や見解も反映されている。これらのことは前に述べたが大事なことなので反復した。

 牛山は「不備の点はあるが」「一読して颯爽とした鉄舟の全貌を見るのに十分で」「ほかに類書がない」と自負している。

 三人の合作であることは、明らかなのであるが、どこからどこまでが鉄樹の話で、石津が書いて、さらに牛山が書き加えているのかが、かならずしも明らかでないところもある。また鉄樹の話も裏付ける史料がないこともあって、歴史学の史料とすることにはためらいもなきにしもあらずである。今後、歴史学研究者としては、本書の鉄舟譚を確実な史料を用いて明らかにしたいと思うし、それを担う人材が育つことを願っている。だから多くの人に読んでいただきたい。

 しかし、なるほど、なかなか信ぴょう性がある、という証言もけっこうあるのもまた本書のいいところだ。

 その一例として、「江戸無血開城」は鉄樹はこう言っている。

 この勝〔海舟―岩下註、以下同じ〕との交渉の話はおれが師匠〔鉄舟〕から直接聞いたのだから確かだ。勝は山岡を抜擢して西郷へ使にやったように云ってるが、大きな間違で、前述べたとおり山岡は勝に逢う前既に慶喜公から大命を受けていたので、順序上幕府の重臣〔海舟〕に相談をかけたのである。のみならず勝は最初山岡を警戒してかかったのだが山岡の精神が解って賛成したので、決して山岡を選んで官軍との折衝に当らせようとしたのではない。勝は才智の長(た)けた偉い男であったが、ひとの功を私した跡の見えるのは惜しいもので、こういう点は山岡がひとに功を譲って退いているのと大分人格の相違がある。

 海舟が大総督府への交渉の使者に自身が行くことの中止を大久保忠寛経由で慶喜から知らされたのが、慶応四年三月四日である(慶応四年三月四日付勝海舟宛大久保忠寛書状・同日付大久保宛慶喜直筆書状、出典は大田区立勝海舟記念館編・刊『勝海舟 勝海舟記念館図録』二〇一九年)。

 慶喜は悩んだ末、側近の高橋泥舟に行くように命じたが、すぐ心変わりして泥舟に相談。泥舟が義弟鉄舟を推薦したのである(拙著『高邁なる幕臣 高橋泥舟』教育評論社、二〇一二年)。

 翌日、鉄舟が、慶喜に謁見して、大総督府との交渉を慶喜から直接依頼された。その足で海舟のもとに行き相談して、西郷隆盛宛の手紙を預かり、その後、家にやってきた薩摩藩士益満休之助と合流し、大総督府がおかれている静岡に出立した。艱難辛苦の末、三月九日、静岡の松崎屋に到達し、西郷に面会することがかなった(拙著『江戸無血開城』吉川弘文館、二〇一八年、以下も同書)。西郷との交渉で、初めて旧幕府側として、降伏条件が書かれた五か条の朝命書を提示された。一つ、江戸城の明け渡し、一つ、江戸城の兵員を向島に移すこと、一つ、江戸城の武器を引き渡すこと、一つ、旧幕府側の軍艦を引き渡すこと、一つ、慶喜を備前池田家に預けることであった。鉄舟は最後の一条は承服できないと保留にして四か条の朝命書をもって帰ってきた。その後、三月十三、十四日の、鉄舟・勝海舟と西郷の薩摩屋敷会談が行われ、慶喜の水戸謹慎が決まったのである。

 こうして「江戸無血開城」が、鉄舟の抜群の働きによってなしとげられたことは、慶喜によって認められており、四月十日夜、明日の朝には江戸出発という最後の夜に慶喜は、「これまでたびたび骨を折って、官軍に第一番に到達したのは山岡、おまえだ。そなたが一番槍だ」と感謝の言葉を述べ、手ずから「来国俊」の短刀を下賜したのである。そのあと、海舟も刀を拝受しているが無銘であり、功績は明白である。

 ともかく山岡鉄舟が「一番槍」の手柄を立てた。鉄舟は、公には海舟に「に功を譲って退いてい」たのである。したがって、西郷と勝しか描かれていない、あの有名な昭和十年制作の聖徳記念絵画館所蔵の、結城素明「江戸開城談判」は鉄舟がいたのに鉄舟が描かれていない。その理由も拙著『江戸無血開城』で触れておいたので、ご高覧いただきたいと思う。

 勝が臨終の鉄舟を何度も見舞ったと本書に書かれているが、何かあるのでは、と疑いたくなる。

 そのほか、読んでいて思わず笑ってしまい、近くにいた家人にいぶかしがられたのは、文部大臣森有礼とのひとくされだ。

 明治天皇の御前での話。

 以前から鉄舟が嫌いであった森が、対面に座っている鉄舟をにらみつけていた。それを見た鉄舟が「なんだ、そんなこわい面をして」というと、森がすかさず「おまえこそ何だ、そんなこわい顔をして」とやった。

 鉄舟は「おまえの面のこわさと俺の面のこわさと、こわさが違う。この野郎!ぐずぐず云うのは免倒だ。つまみだしてしまえ!」と立ちかけた。

 驚いた井上馨が「山岡、御前だ!山岡、御前だ!」と抑えにかかった。

 鉄舟はすかさず「御前は承知だ。この野郎!御前へ出せる奴じゃねえー」

 さてどうなったかは、本書を読んでいただいての御楽しみである。

 ことばや立ち居振る舞いやその場の雰囲気が、なんとも愉快ではないか。私が幕臣びいきというのを割り引いても、実に面白いエピソードだ。幕臣、薩摩、長州の人間模様もさることながら、明治天皇がいてもお構いなし。おそらく天皇も楽しかったのではないか。

 ともかく、鉄舟居士も人の子、好き嫌いがあってしかるべき。まるっきり聖人君子というわけでもない。それでも自宅に詰めかける面会者もだれかれ断らず、すべてに対応して、求められるままに書を揮毫し、いずれにも真摯に対応した、鉄舟の姿がありありと描かれていてほんとうにおもしろい。

 時として大久保利通の暗殺者とさえ話をした鉄舟の日々、毎日を内弟子や書生になったつもりで読むのがよいと思う。さて、鉄舟はくだんの暗殺者に何を語ったのか。そしてその報を聞いてなんといったか。

 気になった方は、本書をご覧いただきたい。

「この野郎!そんなにもったいぶってんじゃねえや!おい、つまみだしてしまえ!」

「へい、へい、それじゃあ、あっしは早々に退散いたしやす」

 (春風館道場の門を出て)

「でも師匠、ちょっとたのしそうだったな」


鉄舟から直接聞いたこと、同時代人として見聞きしたことを
弟子がまとめた正伝。
江戸無血開城の舞台裏など、リアルな幕末史が描かれる。