ちくま文庫

古書店主として読む野呂邦暢「愛についてのデッサン」

本読み達に愛された異色の青春小説であり古書ミステリが初の文庫化。ちくま文庫での刊行にあわせて、古書・善行堂さん店主の山本善行さんに書評をご執筆いただきました。(PR誌「ちくま」2021年7月号より転載)

  野呂邦暢の小説の中から三つ選ぶとしたら、私なら「草のつるぎ」「諫早菖蒲日記」そして「愛についてのデッサン」ということになる。その「愛についてのデッサン」が、ちくま文庫に入ると聞き喜んだのは、読み返すきっかけができるからである。何度でも読みたくなる小説なのだ。みすず書房の「大人の本棚」シリーズに入ったときもそうであった。今回も違った装幀で、それも持ち歩きやすい文庫本となって私たちの前に姿を見せてくれる。表題作の他、短編が五つ入るというのだから嬉しくて仕方ない。
「愛についてのデッサン」は、晩年に書かれた作品で、若い二代目古書店主が古本に絡んだいくつかの謎を追い求める連作小説になっている。私にとって野呂を読む楽しみは、野呂の文章を読む楽しみでもあって、その文章のリズムに身を任せるのは、まるで海洋で仰向けになって漂うかのような気持ちよさなのだ。短い文章の重なりが徐々に核心へと向かっていくといったもので、詩的な表現の中に緊張をも感じさせる見事な文章だ。
 この「愛についてのデッサン」では、その魅力ある文章に加えて余裕のような心地よさも備わってきている。何をどう書いても野呂の世界が現れるといった境地にあったのではないか。何度も読んできた「愛についてのデッサン」ではあるが、今回は古書店主のひとりとして、この小説を読んでみることにした。というのは、重要だと思われることを書き出していたのだが、編者の岡崎武志の解説を読むと、ことごとく説明してあったからだ。
 主人公である弱冠二十五歳の佐古啓介は、父親の死をきっかけに文芸書専門の小さな出版社を辞め、「佐古書店」の後を継ぐことになる。啓介は、学生時代に詩を書き将来は長編小説も書いてみたいと思っていたぐらいなので、出版の世界にも古書の世界にもすんなりと入っていけたのだろう。後を継いだのだから、初めから店があるし本もそのまま棚にある。お客さんも引き継ぐのだから恵まれたスタートだと言えるが、やはりその分、啓介の個性を出すのには時間がかかる。お客さんはどうしても先代を求めていて変化を嫌うだろうから、自分らしさを出しにくいと思う。啓介がそこをどう乗り越えていくかちょっと心配だ。
「佐古書店」は、杉並区阿佐谷北にあり、間口一間(約一・八メートル)程の小さな店で、小説、詩、歴史、美術関係の本が並び、定休日は第二第三火曜日、午後八時までの営業だということが、読み進めると分かってくる。詩集の棚が充実していたのは、詩人の肉筆原稿を探す仕事がきっかけになったのかも知れない。
 また啓介が古書店経営という職業に向いていたと思われるところがたくさんあった。最も感心したのは、詩人の肉筆原稿を集めている銀行頭取のコレクターの所有になったものを譲ってもらうところで、頭取はいくらお金を積んでも売るつもりはないという。そこで啓介は頭取の好きな詩人が萩原朔太郎だと聞き出し、その肉筆原稿と交換することで話をつけた。それを相手との会話の様子で瞬時に判断しているので、啓介はコレクター心理を熟知していることがわかる。古本の世界もお金で解決できないことが山ほどあるのだ。
 また、店番する者が、「古書通信」を読むふりをしながら客の挙動を目で追う所や、お客さんが本を手に取りもう一方の手をズボンのポケットに入れもぞもぞしていた、という観察は、野呂の客としての経験なのか、誠によく見ている。あまりお客さんをジロジロ見ると失礼になるし、所持金でその本が買えるかポケットを調べるお客さんは多い。
このように見ていくと啓介の古書店主としての成功は間違いないと思われたので、安心して本を閉じることができた。

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