ちくま新書

ミャンマークーデターから5カ月(上)――深まる国軍と市民の溝

『ミャンマー政変』著者、北川成史によるレポート

7月8日、『ミャンマー政変――クーデターの深層を探る』(ちくま新書)が刊行されました。東京新聞・中日新聞バンコク支局特派員としてミャンマーでの取材を重ねた北川成史記者が、今年2月1日に発生したミャンマー国軍によるクーデターの影響を辿り、その複雑な背景について掘り下げています。
世界に衝撃を与えたそのクーデターから5カ月余り経ちますが、事態の収拾する見通しはまったく立っていません。国軍と民主化を希求する市民との溝は深まるばかりであり、内戦の恐れすら指摘されています。『ミャンマー政変』脱稿後の情勢を追加取材していただきました。

在日ミャンマー人の声「アメー・スー」
 6月19日夕、200人を超える在日ミャンマー人らが、東京都渋谷区の国連大学前に集まっていた。
 若い男性たちが、肖像写真をプリントした大きなビニールシートを広げて頭上に掲げた。強風にあおられながらも、倒すまいと必死に支えの棒を握り締め、踏ん張る。
 シートには「Best Wish For Happy 76th Birthday」と書かれている。この日は肖像写真の女性、アウンサンスーチー氏の誕生日だった。
 肖像写真の前には、バースデーケーキが用意されている。花の髪飾りがトレードマークのスーチー氏にちなんで、花を髪に刺した女性の姿があちこちで見られた。
「元気で早く戻ってきてください」「1時間でも長く生きることが、ミャンマーの未来のためになります」。参加者らは白い布に、国軍のクーデターで拘束されたスーチー氏の健康と釈放を願うメッセージをペンで書き込んだ。
 多くのメッセージが、こう呼び掛けていた。「アメー・スー」。ミャンマー語で「スーお母さん」を意味する。民主化運動を長年率いてきたスーチー氏への思慕の強さが、改めて浮かんだ。

 国家顧問兼外相のスーチー氏やウィンミン大統領ら国民民主連盟(NLD)の主要幹部は、国会開会日の2月1日、クーデターを起こした国軍に、首都ネピドーで拘束された。
当初は自宅に軟禁されたスーチー氏だったが、その後、彼女自身もどこか分からない場所に移された。
 本稿執筆段階で、スーチー氏は10件に上る事件で起訴されている。無線機の違法な輸入など比較的軽い罪の適用が多かったが、6月の7件目以降は汚職の罪だった。
 国民の精神的支柱であるスーチー氏を隔離し、イメージを傷つけて、影響力を削ごうとする国軍の狙いが表れている。

アウンサンスーチー氏の誕生日を祝う大きなビニールシート
バースデーケーキで祝う

 

亡命したサッカーミャンマー代表選手
 それでもクーデターに対する国民の反発心は衰えない。
 スーチー氏の誕生日直前の6月16日、サッカーのミャンマー代表選手としてワールドカップ(W杯)予選で来日していたピエリヤンアウンさん(25)が、関西国際空港で帰国を拒否。22日には大阪出入国在留管理局(大阪入管)で、難民認定を申請した。
 ピエリヤンアウンさんは来日から6日後の5月28日、千葉市で開催された日本戦で、国歌斉唱の際、国軍への抵抗を意味する3本指を掲げた。指には英語で「WE NEED JUSTICE(私たちには正義が必要だ)」と書かれていた。
「世界の人々にミャンマーの現状を知ってもらうため、3本の指を立てた」。ピエリヤンアウンさんは、筆者のオンラインの取材に答えた。

オンライン取材に応えるピエリヤンアウンさん

 

 クーデターが起きた2月1日、ピエリヤンアウンさんは、代表チームの合宿中で、最大都市ヤンゴンにいた。練習前の朝早く、チームメートの一人から「スーチー氏やウィンミン氏が拘束された」と聞いた時は、悪い冗談だと思った。だが、事実と知って驚き、抗議のデモに加わった。
 国軍はクーデターの理由に、NLDが圧勝した昨年11月の総選挙での不正を挙げた。有権者名簿に大規模な重複があり、二重投票も可能だったのに、NLD政権は対応しなかったとして、クーデターを正当化した。
 総選挙でNLDに投票したピエリヤンアウンさんは反論する。「デモに何千万人もの市民が参加したのを見れば、不正な選挙でないのは明らかだ」
 抗議活動に参加し、命を落とした市民の中には、後輩のサッカー選手もいる。「鶏1羽を殺すように国民を殺す。そんな権力者は必要ない」。国軍への憤りは膨らんでいった。
 代表チームへの招集を拒む選手も現れはじめたが、ピエリヤンアウンさんは参加を継続した。ミャンマーサッカー連盟が当初、選手らの希望に沿って「連盟は国軍とは別の独立した組織だ」との声明を出す意向を示していたからだ。
 ところが、来日直前、連盟が公表した声明は、代表辞退者への罰則を示唆するなど選手への圧力めいた内容で、望みとかけ離れていた。このため「日本に着いたら、ミャンマーのために自分で何かしよう」と考えた。
 試合会場を向かうバスの中で3本指を掲げる覚悟を決め、ペンで「WE NEED JUSTICE」と書いた。
 試合後も葛藤は続いた。知人と相談し、身の安全のため日本に残ろうと決めたが、母国の家族に危険が及ばないか気にかかった。宿舎のホテルから逃げようとして警備員に捕まった。最終的に残留を決意したのは、関西国際空港の出国審査場。「ミャンマーには帰りたくない」と職員に意思を表明した。

 ピエリヤンアウンさんは筆者に、今後への不安を明かしつつも、きっぱりと言った。「後悔はしない。『自分は正しいことをした』と胸を張って人々の前で歩くために決断した。正しい行動をしたことは、将来まで残る私の歴史となる」

 7月2日、ピエリヤンアウンさんは大阪入管で、6カ月間の在留と就労を認める「特定活動」のビザを得た。クーデター後、日本政府が残留希望のミャンマー人のために導入した緊急避難措置が適用された形だ。
 難民認定の結論は出なかったものの、ピエリヤンアウンさんは「自分を拾ってくれるところでサッカーをプレーしたい」と報道陣に語った。