資本主義の〈その先〉に

第19回 資本主義的主体 part8

7 神の全能と無能

 

全知にして全能

 

 しかし、まだ謎が残っている。われわれは、人が、このような神=予見者の存在を信じていれば、以上のような無意識の推論のもとで、世俗内禁欲が実現する、と述べた。予見者=神の存在を前提にし、かつ私が断じて救われていなくてはならないと仮定すれば、述べたような推論が自動的に導かれる。だが、なぜ、人はこんな神を信じるのか。カルヴァン派の神、予定説の神は、信じたところで、まったく「ありがたみ」のない神である。救済か呪いかは、人間には理解できない基準で――したがって人間から見るとまったくの気まぐれのように見えるやり方で――決まっており、信者が何をしようが、救済される確率を高めることはできない。そんな神をどうして信じるのか。何かをすれば、たとえば欠かさず礼拝するとか、寄付をするとか、修行をするとか……何かをすれば、あなたは救われる/報われる、と保証してくれる神だったら、信じたくなるのもわかる。だが、今さら何をしたところで、神の決定は変わらない、と説くような宗教を、なぜ人は信じたのか。そんな神を尊敬する気になれない、というジョン・ミルトンの言葉をすでに紹介しておいた(第17回)。だが、そのような神を信じ、尊敬した人はたくさんいたのだ。どうして、そんな神が信じられるのか。

  この謎を解くためには、いくつかのことをあらかじめ確認しておく必要がある。予定説の神は、神の超越性、人間をはじめとする被造物に対する神の超越性を、論理的につきつめたときの必然的な帰結である。神が完全に超越的であるということは、神が、全知であり、全能であり、それゆえ、神の認知や行動が、宇宙内の諸物によっては――たとえば人間の行いによって――いささかも影響されることがない、ということだ。神の超越性を、合理的な極限にまで突き詰めれば、予定説の神にならざるをえない。その意味では、予定説の神は、さまざまな可能な神の観念の中のひとつ、ということではない。それは、神の中の神、神という観念をいっさいの妥協を許さず、すべての矛盾を排して徹底的に合理化したときに導かれる神である。

  全能の神は、自分の欲する宇宙を、まさに欲したように創造したはずだ。創造した宇宙が、意図していたこととは違った展開を遂げる、ということは、神にとってはありえない。創ったものが、思いもよらぬものだった、ということは神の全能性を否定することになる。

  また神は全知なので、最初から、この宇宙の中で起きることは細部まで見通している。神にとっては、予想していなかったことが起きる、ということはありえない。とすれば、神は当然、誰を救い、誰を呪うかを最初から決めておくはずだし、途中で、その決定が変更されることはありえない。「大澤は、たいして善いことはしないと予想していたので、神の国に迎え入れないつもりだったが、意外と頑張って、役立つ仕事をたくさんしているので、やはり救ってやることにしよう」などということは、神にはありえないのだ。

  さらに、神は、人間の能力を圧倒的に超えているので、たとえば神の知性は人間の不完全な知性とは比較にならないので、人間には、神が何を考え、どう判断するかを推察することは、とうていできない。人間には、神の考えを理解することもできないのだ。人間がおおむね神の判断を想像できるのであれば、神の知性と人間の知性は大差がない、ということになってしまう。

  このように神の超越性を厳密に純化していけば、予定説の神に至ることになるだろう。予定説の神は、神の観念そのものである。

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  だが、このように、超越性の観念を純化させたとき、その観念そのものに、どうしても除去できない内在的な矛盾が残ることになる。それは、全知omniscientと全能omnipotentの間の矛盾である、と言えばわかりやすいだろう。全知であることも全能であることも、神がまったき超越的存在であることの不可欠の条件である。しかし、両者は必ずしも整合しない。

  次のように問うてみれば、矛盾はすぐに現れる。神は予定を変更できるだろうか、と。神は全能なのだから、予定くらい簡単に変更できるはずだ。人間でさえも、予定を変更できるのだ。私など、半日に一度くらいのペースで予定を変更している。だから、当然、全能の神は予定を変更することができなくてはならない。

  しかし、予定を変更しうるという神の能力は、神の全知というもうひとつの条件に抵触する。予定を変更するのは、それまでに予定(予想)していたように事態が進行しなかったときである。とすれば、予定を変更しているとき、神は全知でなかったことになってしまう。

  この矛盾を解決する方法はひとつしかない。神が予定していたことと、神が意志していたこととが、完全に合致していると解釈すること、これである。言い換えれば、事実性(神の知の対象)と規範性(神の意志の産物)とを合致させること、これしかない。神が予定していたことは、まさに神が意志していたことそのものなので、神は潜在的には予定を変更できるが、実際には変更しない、というわけだ。

  一般には、規範(当為)と事実の対立は、倫理学や実践哲学の基本である。規範を事実から導き出すことはできない、というわけである。しかし、規範と事実の間の還元不可能なギャップが強調されているにもかかわらず、西洋の倫理学や政治哲学の領域では、しばしば、限界地点において、このギャップが消滅する。規範の根拠に、突如として、事実が浮上するのだ。ここで詳述はしないが、たとえば、カントの倫理学の「理性の事実」などが、まさにそうした限界地点を指している(1)。規範と事実の間の区別が、臨界点において突如として崩壊するのは、西洋の思想において、倫理的主体や政治的主権といった観念が、神を、一神教の神をモデルにして形成されているからである(2)