昨日、なに読んだ?

File63.日記を書くことについて考えたときに読んだ本

滝口悠生『長い一日』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。

 7月19日。文字通り昨日読んだ本の話をしようと思う。

 ちょうど半年前にtfukuo.comという個人サイトを作って、それから毎日そこに日記を書いている。私がふだん仕事として書く文章は哲学の論文、いろいろなジャンルの批評、そしてその時々のエッセイの三つに大別できる。それぞれに許容可能なテーマや書き方があって、それを支えにしたり逆手に取ったりして書くのだけど、テーマとフォーマットがあるということはどれも同じだ。日記を始めた理由のひとつは、そういうものから離れて文章を書くことに興味があったからだ。毎日、日付がタイトルになった文章を書くということだけが決まりとしてある。とはいえその日あったことを頭から順番にあれがあってこれがあってと箇条書き的に書くと「日誌」になって結局テーマと書き方が固まってしまうので、それだけ注意する。その日あったこと、その日思い出したこと、その日考えたこと。その日のうちにありながら、何か別の日や別の場所に繋がっているような瞬間がすくい出せると嬉しい。

 この文章の題材を決めかねていて、日記に絡めて書けるものにしようと滝口悠生の『長い一日』を本屋で買った。柔らかいレモンイエローのカバー、くすんだ水色の表紙、金色の光沢がつけられた茶色の見返し、素敵な装丁で幸先がいいと思った。講談社のPR誌、『本』に連載された長編小説で、それぞれの回のタイトルがそのまま30いくつの章立てになっているようだ。物語は主人公とその妻が都内の借家から別の借家に引っ越すことを決心してから実行するまでの1年ほどのあいだを大まかな舞台としている。主人公で語り手の「私」は「滝口」と呼ばれる小説家で、著者自身の反映と思われるが、とうぜんどこからどこまでが事実なのかはわからない。しかし個人的な生活の事情を小説に書くこと自体にまつわる出来事も描かれており、それがこの小説のテーマのひとつでもある以上、「大枠としては事実である」という前提で読まないとそのテーマが効いてこないわけで、ここで私もそういう前提に立つことにする。

 ちょっと説明的すぎる書き方になってしまったが、言いたかったのはこの小説が他人事とは思えなかったということだ。些細な出来事がその日に別の日を呼び込む。言葉がその通路を辿るのか、言葉でできた通路を私が辿っているのか、わからなくなる。日記は事実を書き小説はフィクションを書くと截然と分ければ、日記は通路を言葉で辿り、小説は言葉で通路を作るのだと言えば済むようにも思える。しかし日記を書いていて思い出すことがあり、実際の出来事を思い出して書かれた小説がある。小説が「それ自体として」書かれ読まれることと、それが部分的に個人的な事柄に対応するということは両立する。しかしこれは危険な両立だ。この小説を読んでいるあいだずっと妙な胸騒ぎがしていた。これは日記じゃ書けないというところに出くわすたびに、この離陸は「私」をどこに連れて行ってしまうのかと。

 小説の後半、連載の原稿を読んだ妻が内容の不服を訴えに講談社のビルに押しかける。これは正確ではない。彼女は滝口——名前に引用符を付けるべきだろうか——に書かれたことによって、書かれなかったことが消えてしまったかのようで腹を立てている。そしてこの場面は、その場を偶然通りかかった主人公の友人の「窓目くん」の視点で描かれている。「私」はやすやすと語り手の地位を妻へ、窓目くんへと明け渡すが、妻の怒りと「私」の「私」へのこだわりのなさはどこかで繋がっているのではないか。「私」あるいは「今日」から離陸していくことの小説的な快楽だけでなく、そこに著者の生活と地続きのところにいる他者が巻き込まれることの危うさがこの小説には書かれている。しかし「私」が直接糾弾されるわけではないということを、どう考えればよいのだろうか。物語内で処理するのは安直だと言えばそうだが、どこかやきもきしてしまう。

 私はあたうかぎり正直に日記を書いている。でもその正直さには帰属先がない。他人が知らないことばかり書いているし、日々に一貫性など求むべくもないからだ。何かイベントらしきことがあるとかえってそのイベント自体がシェアを求めるようにそれらしい装いの下に隠れてしまうし、たいていはなんにもなかったなとエディタの空白を眺めている。とりあえずそれを「イベントレスネス」と呼んでみている。日々がスカスカであるからこそ、そこに隙間風のように別の日が滑り込んで来る。書くまでは大変だが一息で書けるところでやめてしまえるのが日記のいいところだ。その意味で日記は一日を「短い一日」にすることで文章が低徊したり離陸したりすることを防いでいるとも言えるし、そのことから逃げているとも言える。

 『長い一日』がその一日の長さにおいて引き受け、私の日記がその手前で切り上げているのは、「地の文」というものの過剰さだと思う。この小説には引用符で括られた会話が出てこない。

「夫は、自分のこととなると、何を書けばいいのかよくわからなくて、うまく書けないが、窓目くんのことならうまく書ける、などと楽しそうに言う。そんなの、なんだかもの凄く勝手というか、人でなしなことではないのかと思うし、そんな人が夫であるというのはすごく危険なことなのではないかと思うのだけれど、と妻が言うと、窓目くんは、え、いま頃そんなことに気がついたの? と言い、でも大丈夫だよ、どうせ何を書いたってたいして売れやしないんだから、と笑った。あ、大丈夫じゃないか。」(118頁)

 こうして引用は、言葉の帰属先を私から切り離す。引用符は私の護符でもある。それに対してこの引用文のなかで起こっているのは、「私」のもとから伸びていった地の文が「私」を見返し、妻と窓目くんに引き渡されるプロセスだ。引っ越しが決まり、なかば過去になった家で地の文が一日を引き伸ばし、身近な人々がそこに巻き込まれ=それを巻き取っていく。しかしそのなかで、書かれなかったことが消えてしまったと言う妻の怒りは、どこにヒットするのか。それ自体すでに「妻」の怒りなのだとしたらその宛先は見つからないだろう。それこそ「人でなし」ではないか。書評じゃないのだから「わからない」と言ってしまえばいいと思う。人様の家のことなど知ったことでないと思う。私にもヒットしうると思う。もう7月22日。3日もかかってしまった。

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