弱き者が見殺しにされる国 -新型コロナウイルスの猛威の陰で-

若い患者の居場所がなくなる

大阪市都島区にある大阪市立総合医療センターには小児がんなど若い患者さんが中心の病棟があります。彼らには大人と違った支援が必要であるため、そういった病棟が必要なのです。でも、コロナ禍においてはその病棟も閉鎖されることに。そこでは何が起きているのでしょうか。患者さんの声を届けます。

AYA病棟の危機
  大阪市都島区にある大阪市立総合医療センターは、千以上の病床と五十三の診療科を有し、小児から高齢者まで多くの患者を受け入れてきた。今回のコロナ禍においても、国が定める感染症指定病院として初期段階から新型コロナ専門の病棟を設置し、重症患者の治療の最前線となってきた。
 私は『こどもホスピスの奇跡』(新潮社)を執筆するにあたって、この病院を四年ほど取材してきた。二〇二〇年十一月、本書の著者インタビューを大阪の新聞記者から受けていた際、こんなことを聞かされた。
 「大阪市立総合医療センターのAYA世代の病棟が閉鎖されることが決まりました。病院の看護師がコロナ対応で不足していて配置換えをする必要が出てきたそうです。すでに緩和ケア病棟などが閉鎖されていますが、AYA病棟にいるのは小児がんなど若い患者さんばかりなので、閉鎖された後のことが心配です」
 AYAとは、「思春期・若年成人」を意味する言葉で、十代から三十代の若い世代を示している。未就学児や小学生を対象とする小児病棟より年齢層は上だが、中学生~大学生、それに二十代くらいの患者は、幼児や高齢者とはまた違うメンタルや家庭の支援を必要としている。
 たとえば、中学生~大学生であれば、家族だけでなく、病棟内で気心の知れた同世代の仲間と過ごす時間を大切にする傾向にある。進学や就職の悩みは、同じ病気を経験した先輩や、専門のソーシャルワーカーからのアドバイスの方がより心に響く。抗がん剤治療によって不妊症等になる人も少なくないため、結婚や出産のことを相談したい人だっているだろう。
 こう考えると、AYA病棟の環境は、患者にとって心の支えとなるものなのだ。その病棟がコロナ禍によって閉鎖され、患者たちが別の病棟へ移されるとなれば、必要としているケアを受けにくくなる可能性がある。若い世代の難病患者たちは、闘病環境の変化に耐えられるのだろうか。
 記者から話を聞いた後、私はすぐに同病院の関係者に連絡をし、内情を確認した。それによれば、現在AYA世代の専門病棟には二十七床あり、二十名ほどの患者が入院しているらしい。病棟の閉鎖はすでに決定しており、十二月から患者たちは順次別の病棟に移動させられるという。十代の患者は小児病棟へ、二十代の患者は成人病棟へ移されるそうだ。
 これまでの連載で、コロナ禍が社会の中で弱い立場の人々を苦境に追いやってきた状況を見てきた。私はそれを聞いたことで、最後に病院で闘病している難病の子供たちを取り巻く環境の変化に光を当てることにした。

若い患者だからこそわかりあえる
 大阪市総合医療センターは、二〇二〇年二月から新型コロナの患者を、重症者を中心に受け入れてきた。
 同病院は多種多様な疾患の成人患者を受け入れる一方で、小児がん拠点病院や小児3次救急に指定されており、多数の小児からAYA世代の若い難病患者の治療に当たってきた。いわば、大阪における若者世代の難病患者の最後の砦なのだ。そういう意味では、その砦がコロナ禍によって傾いたということになる。
 この頃、AYA病棟に入院していた一人に、末永日香里(仮名)がいる。二〇〇一年の生まれの女性だ。
 日香里の病気がわかったのは、二〇一九年八月、高校三年生の時だった。腰痛がつづいていたため、鍼灸師の資格を有する母親に診てもらったところ、臀部にしこりがあると言われて病院で検査を受けた。すると、小児がんの一つである横紋筋肉腫であることが発覚した。
 即座に、同病院への入院が決まって外科手術で腫瘍が取り除かれ、その後は抗がん剤による薬物療法が開始された。治療の間は全日制の高校へ通学できないため、通信制の高校へ編入。治療を受けながら、一年遅れて大学受験に挑むことを決めた。
 薬物療法で患者をもっとも苦しませるのが、抗がん剤による副作用だ。抗がん剤治療とは、極端にいえば体に毒物を流し込むことでがん細胞を死滅させることだが、正常な細胞にもダメージを与えてしまうため、嘔吐、高熱、脱毛、抗うつ状態、下痢といった様々な症状を発症させる。
 家族は日香里を心配し、毎日のように面会に訪れては励ましたり、身の回りの世話をしたりした。もともと内気な性格だった日香里は、積極的に自分から周りに声をかけるタイプではない。だからこそ、面会に来てくれる親と話や食事をする時が数少ない息抜きの時間だった。
 日香里は次のように述べる。
 「AYA病棟は若い患者向けを支えるために必要な病棟だと思います。AYA病棟では親の面会はいつでも可能で、保育士も配属されていました。治療中、私は精神的にかなり落ち込んでいましたし、副作用の下痢や吐き気がとにかくすごくて、口の中に食べ物を入れることさえできないこともあったんです。保育士の方はあまり社交的でない私に『大丈夫?』って声をかけてくれましたし、家族は私になんとか体力をつけさせようと食堂へつれていって、口にできるものを選んで時間をかけて食べさせてくれました。
 AYA病棟に同年代の患者がいたのも安心でした。廊下で高校生や大学生くらいの患者とすれ違って挨拶をするだけで、『苦しんでいるのは私一人じゃないんだ』と考えられて気持ちが楽になるんです。病棟にはAYAの会という集まりがあって、夜に病棟の患者同士が集まって交流していました。
 あと、学習室があったのも助かりました。治療しながら受験勉強や定期テストをしなければならなかったので、体調のいい日はベッドから離れて机に向かって何時間も勉強していました。気持ちの切り替えになりますし、同じように勉強をしている人がいるので励みになりました」
 高校三年で突然がん告知されれば、日常の何もかもが一変してしまう。そんな状況に陥った若い患者たちをあらゆる面から支えるのがAYA病棟の意義なのだ。
 しかし、二〇二〇年に入って間もなく、新型コロナの感染拡大に伴い、AYA病棟で治療を受けていた日香里を取り巻く状況が一変することになる。

コロナに対応せざるを得ない病棟
 二月に入った頃から、病棟内で少しずつ新型コロナという名を聞くようになった。病院が患者の受け入れをはじめたことで、院内の体勢や職員の勤務形態にも少しずつ影響が出はじめていたのだろう。だが、まだその波はAYA病棟にまでは及んでいなかった。
 それが大きく変わったのは、三月から四月にかけてだ。感染者の急増にともなう緊急事態宣言の発令によって、病棟内でのルールが大幅に変更となったのだ。たとえば次のようなものだ。
・面会規制(家族であっても面会は禁止)
・治療中の外泊の禁止
・各種イベント、AYAの会の全面中止
・ブライトカフェ(交流スペース)や学習室の利用人数制限
・食堂の閉鎖
・ボランティアの受け入れ中止
 まず、病院は外部からの感染拡大を恐れて、入院患者との面会を全面的に禁止にした。衣服などの差し入れをすることはできても、病棟に入ることはできなかった。また、通常は治療中であっても、患者の体調のいい時は「外泊」として自宅等への帰宅を認めていたが、これも禁止となったことで、患者は退院しない限り、親やきょうだいと会うことができなくなった。
 病棟内で行われていた様々なイベントや、AYAの会も全面的に中止に追い込まれた。これらは患者同士の交流の場であると同時に、ボランティアを含む家族以外の人とつながる場であり、それが精神的な支柱になることも多かったが、すべてなくなったことで外部との接点がほとんどなくなった。
 病棟内での生活が次々と制限されていったことについて、日香里は次のように語る。
 「三月、四月になって、どんどん私にとって大事なものが奪われていったような気持ちでした。親と会えなくなり、他の患者さんと話をする機会も減りました。胸の内を吐き出せなくなったことで、不安や孤独が膨らんでいきました。そのせいで、抗がん剤治療がそれまで以上にしんどくなり、体調も悪くなりました。メンタルがやられていたのは自分でもはっきりわかっていました。
 ただ、私たち患者同様に、看護師さんもかなりしんどそうでした。明らかに疲れているのがわかった。本当に忙しそうだったし、手が回っていないのも明らかでした。病院、大丈夫なの? って感じるほどでした」
 同病院では、新型コロナへの対応によって看護師等の配置転換が行われていた上に、感染防止対策や、それまで家族やボランティアが担っていたことを代わりにしなければならなくなったことから、一人当たりの仕事量が格段に増えていた。それが病棟の看護師の気持ちと体力を削り取っていたのである。

自分たちだけで助け合う
 当初、病棟の患者たちは自分たちがどうなるのか不安でたまらなかったが、疲労困憊する看護師を見ているうちに、だんだんと「自分がしっかりしなければ」と思うようになった。看護師に頼ることができないのならば、自分自身でやっていくしかないと考え直したのだ。
 日香里は言う。
「病棟から出られず、親に頼ることもできないなら、自分の力でがんばるしかないという思いになりました。それまでは困ったことやつらいことがあれば、親に訴えればいいとか、ナースコールを鳴らして助けてもらえばいいって考えだったんですが、コロナ禍ではよほどのことがない限り、看護師さんを呼び出すのは止めようと思ったんです。自分で解決するか、患者同士で助け合って、それでダメならようやく看護師さんを呼ぼうって思った。他の患者さんたちもみんな同じだったみたいです」
 それまで日香里は、気恥ずかしさからあまり他の患者と親しくしなかったが、自分から積極的に話しかけて友達をつくったり、不安そうにしている患者の相談に乗ったりするようになった。今まで閉め切っていたベッドを囲むカーテンを開けて、同室の患者と顔が見えるようにしたのもこの頃だ。家族との関係が希薄になったからこそ、患者同士のつながりを求めたのだ。
 受験勉強や定期試験の勉強においても同じだった。日香里の家庭は裕福でなかったため、大学は国公立へ進学する必要があり、闘病中も勉強は欠かせなかった。彼女は人数制限がかかる学習室へ行くのを止め、ベッドの上に机を置いて勉強し、わからないことがあれば医師や年上の患者に質問した。
 抗がん剤治療を受けながら、短期間でそこまで自分を変えることができたのは、そうでもしなければ、難病とコロナ禍を乗り越えることができないというところまで追い込まれていたからだろう。
 AYA病棟の他の患者たちも、それは同じだった。病棟で日香里が知り合った女性の一人は、治療を終えて退院した後、自らNPO法人を立ち上げ、AYA病棟や小児病棟で孤立している患者たちを支援する事業をはじめた。それは彼女自身が、実体験を通して患者に対する支援が必要不可欠だとわかっていたためだ。
 しかし、そのようにして約半年を過ごした患者たちを待っていたのは、十一月末のAYA病棟の閉鎖だった。先述したように、十代の患者たちは幼児~小学生が対象の小児病棟へ、二十代以上の患者たちは成人病棟へ移されることになった。
日香里は言う。
 「AYA病棟ではなんとかみんなで支え合って苦しい時を耐えていました。病院の事情で仕方がないとはいえ、それがバラバラになって、仲良くしていた看護師さんや患者さんと会えなくなり、まったく年齢のちがう患者さんたちの中に入っていって、闘病をしなければならなくなりました。一人ひとりにとって、それはものすごくしんどいことだったはずです」
 病院の関係者によれば、AYA病棟の閉鎖が決まって離れ離れになる時、患者同士で手を取り合って励まし合ったり、泣きじゃくりながら看護師に感謝の言葉をつたえたりした光景が見られたそうだ。これまで苦楽を共にしてきた仲間との別れを悲しみ、無事を祈ることしかできなかったのだろう。
 医療者も、患者たちの背中を何度もさすって「がんばってね」「きっとうまくいくから」と言った。患者のこれまでのがんばりと、これからの不安の大きさを知っているからこそ、そう声をかけずにいられなかったのだ。
 AYA病棟の閉鎖とは、コロナ禍で必死に踏ん張ってきた若い世代の患者を残酷にも引き裂くことになった。こういう状況を、病院の外にいる家族や支援者は、どんな思いで見ていたのか。
 次回はそれについて述べたい。
(8月20日次回掲載予定)