ちくま学芸文庫

序章 なぜ戦争体験に固執するか

安田武著『戦争体験』より

自らの戦争体験の「無念」とその伝承の難しさについて、20年をかけて書き上げた安田武著『戦争体験 一九七〇年への遺書』。8月15日の戦闘について書かれた序章を公開します。



 若い中隊長が作戦を誤まった。そのために、ぼくたちの中隊は、三分の一が戦死し、三分の一が負傷し、残りの三分の一だけが、辛うじて無事──その間、二時間ぐらいのことであったろう。ぼくたちは、ようやくの思いで塹壕のなかの敵を追い散らし、石で造られた橋梁の蔭にとりつくことができた。昭和二十年八月十五日の朝まだきのことである。
 死ななかった連中が、暁闇のうすい靄のなかから、一人、二人と姿を現わすたびに、ぼくたちは、お互の無事を喜びあって肩をたたいた。殲滅的な作戦を敢行して、とにかく、その橋梁の蔭に辿りついたが、しかし敵は、まだ完全に敗走してしまったわけではない。
 大きな頑丈な石の欄干に遮蔽して、ぼくたちは、戦争をつづけた。Aが、右の眼だけをのぞかせて、そこから撃ちまくっている。ぼくもAの蔭にかくれ、Aの肩越しに、やはり右の眼だけでうかがいながら、ヤタラと撃っていた。Bは同じように、ぼくの肩越しに撃っていた。
 シッという鋭い音が、ぼくの耳朶をかすめたのと、その時まで、ぼくの肩にもたれるようにしていたBが、ゆっくりと、ぼくの肩からはなれ、そして仰向けにひっくりかえったのと、ほとんど同時であったようにぼくは覚えている。ぼくがふりむいた時、Bは橋の上にのけぞり、ぼくがその肩に手をかけた時、もう彼は死んでいた。敵弾は、もののみごとに鉄兜の星章をブチ抜き、眉間から後頭部を貫通した銃弾のために、彼はウともスともいわなかった。明らかに狙撃兵の狙い撃ちであった。盛夏の曙日が、すでに蒼ざめ果てた彼の顔面に灼けつき、ぴたりと時間が停止したような周囲の静寂をぼくが感じた時、Bの傷口から、はじめて、たらたらと血が流れてきた。──ぼくは、Aの蔭から右眼だけを出していた。つまり、敵にたいして、右半顔ほどをAより露呈していたことになる。Bはさらにちょうど顔半分を、ぼくから露呈していたわけである。
 その朝早く、七十名近い若者が殺され、苦しい激戦が終って、ホッとした、いわば幕間のようなひとときに、ぼくよりほぼ十糎ほど、右に「位置」していた奴が、声も立てずに死んだ。前にも書いたとおり、それは、昭和二十年八月十五日の早暁のことであった。
 間もなく、「終戦の詔勅」は降り、ぼくたちは、ソ連軍の捕虜となり、それから一年半の後に日本へ還った。


 なぜ、戦争体験に固執するのか、──そう問われれば、ぼくは当惑するよりほかはない。固執するわけではなく、固執せざるを得ないのだ。なぜならば、その体験を抜きにして、ぼくの今日は無なのだから。
 ぼくは、いま、毎日好き勝手な本を読み、好きな酒を呑んで暮している。ぼくの生活は、人目には、きっと不しあわせではないだろう。いや、人目どころか、ぼく自身、われとわが身を不幸だなぞと思ってはいない。
 ところで、ぼくが、いま不しあわせでないのは、あの時、ホンの十糎ほど左の方に位置していたからなのだろうか。ソ連軍の狙撃兵が、ぼくではなく、Bを狙ったからであろうか。それとも、八月十五日に、敗戦がきまったからであろうか。
 では、あの時、十糎ばかり、右の方にいた奴のしあわせは、どうなったのだろう。もし、「終戦の詔勅」が、昭和二十年八月十四日だったらどうなるのか、八月十六日だったら、それはどうなっていたのか。


〈厚生省の調べによると、今年〔一九五九年〕の七月一日現在でソ連邦地域での消息不明の未帰者は五千四百五十八人、このうち十二人(うち朝鮮人二人)が、こんどの発表でその死亡が確認できた。〉
 これは、つい先ごろの『朝日新聞』の記事である。徳澄正(彼のことについて、ぼくは幾度か書いた。東大国文科在学中、出陣した彼の消息は、いまもって、全くわからない)のことは、ついにわからずじまいになるのだろうか。誰にもわからず、伝わらぬ「死」というもの──それがぼくたちの生きている現代の社会のなかであったのだ。人の生命が、これほど侮辱された時代が、ついこの間、この日本にあったのだ。しかも、ぼくたちは、かつて、その祖国に、自分たちの生涯を捧げようと覚悟していたのだった。
 ぼくを、その「覚悟」から救ったものは、わずか十糎の任意の空間の距離にすぎない。或はあの狙撃兵の恣意的な選択にすぎない。あの時から十五年、その後のぼくの生存を保証しているものは、あの時の任意の距離、もしくは、見知らぬ異国人の恣意なのだろうか。そして、これからも、ぼくの生きている限り、ぼくの生命は、所詮ひとつの「偶然」にすぎないのだろうか。


 映画スターの酔っぱらい運転による事故死や、無謀な若者の山の遭難などに大騒ぎする「平和」な時代のなかで、ぼくは、生きる場所を見出すのに苦しむ。陽あたりのいい隠居所を作って、そこで静かに余生を送りたい、というぼくの願いは、冗談や酔狂ではないつもりである。
 戦争体験に固執するかぎり、そこからは何ものも生まれないであろうし、それは次代に伝承されることも不可能であろうという批判は、耳の痛くなるほど聞かされている。しかし、戦争体験を放棄することによって単なる日常的な経験主義に陥り、その都度かぎりの状況のなかに溺れることだけは、ぼくはもうマッピラだ。
 戦争体験の伝承ということ、これについては、ほとんど絶望的である。ぼくは、戦争体験に固執し、それについて、ブツクサといいつづけるつもりであるが、それを次代の若者たちに、必ず伝えねばならぬとは考えていない。最近どこかの座談会で、「それを受けつぐか、受けつがないかは、若いゼネレーションの勝手たるべし」と発言していた竹内好の言葉に、ぼくはぼくなりに、全く感動的に共鳴するのである。
 


 


 

わかりやすい伝承は何を忘却するか。
戦後における戦争体験の一般化を忌避し、
矛盾に満ちた自らの体験の
「語りがたさ」を直視する。